南野忠晴さん『シアワセなお金の使い方』は子どもに読ませたい本だった

岩波ジュニア新書『シアワセなお金の使い方』を読んだ。著者の南部さんは、家庭科の教員とのこと。
まず、家庭科で「お金とのつきあい方」を教えるってことを初めて知った。自分の記憶はまったく無い。いや、家庭科じゃ駄目だろう。個人的には、マネーリテラシーは科目として独立させるべきだと思う。必須科目だよ。まあ、学校に期待できなければ、自分で優れた「教科書」を読めばいい。山崎元さんの本とか、ぴったりだが、この南部さんの本も良い。

1966年の「国際人権規約」で「学費無償化に向けて努力する」とあって、1979年、日本は留保したらしい。なんで?そして、今、ようやく安倍政権は学費無償化に向けて動いている。この一点だけでも、安倍政権を支持したい。財務省は反対だろう。しかし、この留保の点、そして今まで無償化を実現できていないのは、教育行政、文部科学省の敗北の歴史なんだろう。負けを認めないといけない。周囲を見ても、負けや失敗を認めずにずるずる泥沼にはまる場合が多い。

南野流「ワークライフバランス」では、ワークを社会的な活動の時間として定義している。自分以外の誰かのために使う時間。これは先日、読んだ駒崎弘樹さんとほとんど同じ「働く」定義だと思った。読書がつながった。つながる快楽をこういう時に感じる。
この定義による「ワーク的幸福感」は1日30回10年続いても苦痛にはならない。確かに。必ずしも、自分のためだけに生きることがハッピーにつながらないのだ。社会的な労働は、人のためのみならず、自分のためにもなる。ボランティアを大学受験や就職活動の要素にしてしまうとその辺りの感覚がおかしくなりそう。

自分らしさとは、非常にリアルな「チョイス(選択)」のこと。そこにお金がからんでくる。選択の連続。自信をもって選択するための判断基準となる「価値観」をいかにつくるか。日々の選択に意識的になること。

[ワーク]究極のひとり暮らしはおもしろい。自分もプチ書斎で実践してみようと思う。ほとんどの道具をとりあえず段ボールに放り込んで、押入れにしまってしまえばいい。最小限のツールでスタートするのだ。何か必要と思ってもすぐには買わずリスト化する。自分の場合、スマホのタスクリストがあり、ジブン手帳miniもある。本当に欲しいものを吟味して、「心をときめかせながら」買う。ときめきとか、丸でこんまりだな。
がらんとした部屋に住んでいたらしいスティーブ・ジョブズを思い出した。

持たない生活で余分なものをそぎ落とし、世間の雑音をシャットダウンして、自分の本当の声を聞くことから始めたい。

ミニマリストに通じる思考だろう。

予算は「自分らしさ」の表現。そして、決算は見通しが正しかったか点検。駄目なところは次の予算で修正。

本当にやりたいことがあるのなら、お金があってもなくても、とにかくやり始めなければいけない

結果、そこに補助金が付いたり付かなかったりする。しかし、補助金が無くても、減額されてもやらなきゃいけない。その覚悟とプランがあるかどうかが勝負になる。
予算は一種の作品。アートなんだよね。作る側からすると。財務省の主計官や主計官補佐は、命を削って毎年予算案を作っていると思う。それを正面から審議せずに、森友学園問題ばかりの国会議員とか。

「所有」は文明の発達とともにつくられた、抽象的な概念の一つ。「所有」のためにではなく、「シェア」のためにお金を使う。シェアリングエコノミー。
お金を使うこと=投票行動フェアトレードなど。素晴らしい商品は、きちんと定価で買うことが重要だと思う。たとえばKindleで読んで良かった本は紙でも買って本棚に置いておけば子どもたちも読める。著者への支援にもなる。

お金をどう使うか、のヒントがたくさんある本だった。子どもたちにもすすめよう。読むかどうかは、「課題の分離」(アドラー)で当人たちに任せるとして。

森川すいめい『その島のひとたちは、ひとの話をきかない』を読んだよ

精神科医の本。何と言っても、本のタイトルが素晴らしい。「その島のひとたちは、ひとの話をきかない」。それだけで読むことにした。タイトルが素晴らしい本は間違えない。
結果、内容も素晴らしかった。色んな学びと思考がある。
ちなみにタイトルですぐに思い付いたのは、各自が勝手に自分の話をして、人の話を聞かないことでみんなハッピーなイタリア人という話。

  • 問題が起こらないようにする組織
  • 問題があるのが当然として解決しようとする組織

前者は管理や監視、規則やルールも多くなる。問題解決能力が低い。どこかで見たことがあるよね。一方、後者は、変化に対応できる。ルールは最小限。現場に決定権がある。前者は、問題が怒ると悪者探しをする。責任問題となる。結果、問題を恐れ挑戦しなくなる。そして、組織は古く硬くなり、やがて新しいひとが入らなくなる。
組織論のビジネス書ではない。自殺希少地域のフィールドワークに基づく記述である。

「工夫」の力、生き延びるために、自分を変える。耐え忍ぶのとは違う。相手は変えられないから自分が工夫する。フィンランドにはそういう傾向があるらしい。これって、ライフハックだと思った。『七つの習慣』のインサイドアウトという考えにも通じると思った。色んな読書がこうやってつながる。脳内でもつながる。

もっともグッと来たのは、「自分がどうしたいか」それだけ、という言葉。他人を助けるのに、他人の気持ちをおもんばかる、あるいは忖度する必要は無い。自分が助けたければ助ける。そういうシンプルなやり方がいい。それを貫く。相手には余計なお世話かもしれないが。
川崎の踏切事故で亡くなった人も、自分が助けたいから助けたのだろう。あるいは、勝手に体が動いてしまった。考える前に助けるという姿勢。

オープンダイアローグ
フィンランド・トルニオ
ヤーコ・セイックラ「ひとが呼吸をするように、ひとは対話をする」
ただ対話すればいい。でも、結果として何かは変わるかも。仕事において、自分が意識的に放つ「ジャブ」も一種の対話なのかもしれない。
akizukid.hatenablog.com
相手にジャブを放てば、相手の脳内にそれは引っかかる。何かのタイミングで、相手がそれを実行してくれる可能性はある。変わるかもしれない。変わらなくても失望はしない。最初から期待しないジャブだからだ。ジャブでノックアウトしようとは思わない。

七つの原則

  1. 「困っているひとがいたら、今、即、助けなさい」(即時に助ける)
  2. ひととひととの関係は疎で多(ソーシャルネットワークの見方)
  3. 意思決定は現場で行う(柔軟かつ機動的に)
  4. 「この地域のひとたちは、見て見ぬふりができないひとたちなんですよ」(責任の所在の明確化)
  5. 解決するまでかかわり続ける(心理的なつながりの連続性)
  6. 「なるようになる。なるようにしかならない」(不確かさに耐える/寛容)
  7. 相手は変えられない。変えられるのは自分(対話主義)

自殺希少地域の人たちは、人間も一種の自然として扱っているんじゃないか、という気がしてきた。雨が降って、天に文句をつけてもどうにもならないように、他人を思い通りにしようとは思わない。
よし、明日からも、どんどんジャブを繰り出そう。

ちょうど一年前のモレスキンを読み返していたら、マルクス・アウレリウス・アントニヌスの『自省録』の言葉を抜き書きしていた。

自分でコントロールできるのは、自分の心であり外的な事柄ではない。それに気づけば強くなれる。

しかし、その言葉に続いて自分が書いていたのは、「外的な事柄」や他人であっても、粘り強く働きかけて動かさないといけん、という内容だった。過去の自分に感心してしまった。野中郁次郎さんが言うように、他人を説得して主観を客観にしていくことが大事という面もあると思う。まさしくGRITという言葉。あるいは、インヴィクタス。不屈の精神。マッチョ。しかし、そういう姿勢が自殺と紙一重だということもわかる。

エリック・ホッファー自伝がおもしろい

なんて読みやすい文章なんだ。『エリック・ホッファー自伝』、原題は Truth Imagined 「構想された真実」と訳されている。かっこいい。
なんで今まで読んでいなかったのだろう。
読みながら、たくさん引用した。自分の中にインストールするために手書きで抜書きした。万年筆カクノで。
本を引用する時は、左手で本を開いて押さえながら、右手でノートに書く。だから、デジタルよりアナログ。必要があれば、ノートからEvernoteの転記する。この場合、両手が必要になる。左手で本を押さえながら、右手でスマホフリック入力という手もあるが。
しかし、本を読みながら抜き書きするのも度を過ぎると疲労の原因となる。読書そのものが快楽ではなく、苦痛となる。抜き書きは適当でいい。

逃げるホッファー

何かを得てしまおうとした瞬間に本能的に逃げ出してしまうホッファーに、ある種の病を感じた。定職や美しい女性から逃げるホッファー。普通の人であれば、逃げたりしない。むしろ飛び付いてそれらを得ようとする。そこをホッファーは逃げる。永遠のよそ者であることを志向する。

希望より勇気

  • 希望→自己欺瞞、損なわれやすい、とりかかるのはたやすい
  • 勇気→理性的であるがままにものを見る、寿命が長い、やり遂げる

GRITという概念に近い。不屈の精神、インヴィクタスのネルソン・マンデラを思い出す。

弱者の機能

弱者を弱者として肯定しているホッファー。ニーチェを批判している。おもしろい。これは自分には無かった視点。ニーチェのように弱者の害悪しか見ていなかった。人類に対する機能が弱者にはある。深い。甘っちょろいヒューマニズムではない。

労働批判

一日六時間、週五日以上働くべきではないというホッファー。労働の後に本当の生活が始まる、という考え方。これはわかる反面、肯定できない。労働も含めてトータルで本当の生活ではないのか。

akizukid.hatenablog.com

エリック・ホッファー自伝―構想された真実

エリック・ホッファー自伝―構想された真実

糸井重里さんの凄さと40歳からの危機

Desert

浅田彰さんの『逃走論』の中に「本当にすぐれたプロというのはアマチュアであることをやめないひと」という言葉があって、すぐに思い付くのは株式会社ほぼ日の糸井重里さんだ。実際、浅田さんの文章(『広告批評』1983年3月号)でも別の箇所で糸井重里さんの名前が出ている。当時、糸井さんはコピーライターとして広告業界の人だったのだ。で、何が凄いって、この文章が書かれてもう34年が経っているということ。そして、糸井さんは現在でもトップランナー中のトップ、上場企業のトップ。ほぼ日手帳を生み出したり、とまったく衰えていないところ。真のスキゾ*1だったからこそ、ここまで生き延びてこれたのかなあと思う。

そんな糸井さんにも危機の時期はあったようで、次の記事に詳しい。
aera.1101.com

糸井さん40歳の頃。自分はもう42歳になっているけれど、危機を脱していない気がする。
「僕はゼロになることを意識するよう心掛けた。」と糸井さんが言っていて、それは「アマチュアであることをやめない」という言葉と呼応している気がする。
糸井さんはその頃に釣りを始めたと。自分はその「釣り」に当たる何かをまだみつけきれていない。危機をだらだらと引きずっている。

自分が、浅田さんの逃走論を読んだのは、1994年、20歳前の頃で、大学浪人中で、ある意味、危機の時期だった。そのスキゾ論は生き方として深くインストールされて、その危機をうまく乗り越えることができた。それから23年が経過し、定職も15年ほど、結婚もして子どもも三人生まれた。パット見、パラノ的なサラリーマン人生になっているが、そんな生活の中でもスキゾ的に生きることが精神の維持に必要な気がしている。「逃げろ」と言われてもなかなか逃げられない中で、実際には旅をほとんどしなかったドゥルーズのように、動かなくても速度を上げることができるかどうか、その点にかかっていると思うのだ。
何だか抽象的な物言いになってしまって、じゃあ、具体的にどうするのか、さっぱり思いつかないのだけれど、40歳の長いトンネルを
抜けるとそこは砂漠だった、という感じに気付いたらなっていた、という地点を目指している。

*1:今風に言えば「ノマド」だろうか。

文庫本の本棚を2本新しく並べて見える化したら色々読みたくなった

妻が文庫本用の本棚を2本買ってきた。それを組み立て、長女が文庫本中心にどんどん並べた。
先日、妻が実家から持ってきた大量の文庫本と自分が段ボール箱に眠らせていた文庫本をどんどん並べた。
二人の趣味が違うので、重なることは無い。唯一被ったのがポール・オースター『幽霊たち』だった。
https://www.instagram.com/p/BSqAK1KhEVm/
妻が買ってきた文庫本棚に子どもたちが並べたところ。段ボールに眠っていてもったいなかった。見える化すれば読みやすくなる。子どもたちが読む可能性も高くなる。自分と妻の趣味でバラエティもある。#bookshelf

本棚にはまだ余裕がある。しかし、新しく買うつもりはない。これくらいあれば読むのに十分だろう。
棚に並べて見える化したことで、色々と読みたくなった。本は読まないと意味が無いよね。
また、並べておけば、子どもたちも何かのきっかけに手に取る可能性が高くなる。長男は中学生となり、学校では朝読書として必ず一冊持参する必要がある。本棚から適当に選んでもらえるといい。
妻の方が文学全般的にまんべんなくそろえている感じ。『ゲバラ日記』とか、ハインライン夏への扉』とか、意外なものもあったりしておもしろい。自分の場合、ニューアカの影響で現代思想やサブカル系の本が多くなっている。範囲が狭い感じがする。
プルースト失われた時を求めて』は7巻で止まっている。ちくま文庫版。その内、再開しよう。
中上健次の文庫本選集も一通りそろっている。ゆっくり読もう。
新しい本は必要じゃない。死ぬまで手持ちの本を読めばいい。そんな気分。

幽霊たち (新潮文庫)

幽霊たち (新潮文庫)

新訳 ゲバラ日記 (中公文庫)

新訳 ゲバラ日記 (中公文庫)

夏への扉 (ハヤカワ文庫SF)

夏への扉 (ハヤカワ文庫SF)

主観のズレが人や組織を動かす

野中郁次郎さんの言葉
「人々を説得することで主観を客観にしてく」
「主観を客観化していく過程こそがイノベーション
それらにインスピレーションを受けて、思いついたのが、主観のズレというコンセプト。
主観のズレがあると、伝言ゲームが発生する。人を介するごとに、どんどん意味が変化していく。一般的には悪いことと思われている。しかし、その主観のズレこそがイノベーションの素となる可能性がある。
人から人へ情報が正確に伝わらないからこそ、クリエイティブな何かが生まれる。
だから、主観で情熱をもって語ることが仕事の中心となる。それが人や組織を動かす。
野中さんには「政治力の本質はレトリック」という言葉もあって、言葉によって練り上げたビジョンが人を動かすのだろう。
今の仕事は、打合せが多い。そこで語ることが大事。主観で構わない。ただし、徹底的に思考した結果の主観でないと説得力をもたないだろう。

追記 2017/04/18

ちょうど何度目かの再読をしていた浅田彰さん『逃走論』がドゥルーズの哲学について「力と力の差異が運動を生む」「差異こそが力」という言葉で表現していて、それが「主観のズレ」にも接続する気がした。

知識創造企業

知識創造企業

忖度について

森友学園の問題については、どうなっても関心が無い。ずっと考えているのは、「忖度」について。
官僚や政治家の世界に限らず、どの組織でも忖度はある。
勝手に偉い人の気持ちを忖度して、仕事を増やして、それを部下に丸投げする人はどの組織にでもいるだろう。それを嘆いても仕方無い。現実は現実として受け入れて、個人として忖度にどう向き合っていくかについて考えている。

たとえば日常的に平和な時には忖度できた方が上の覚えもよいだろうし、出世にもつながるだろう。しかし、今回の森友学園みたいに何か問題が起こると、下の人間は責任を押し付けられるだろうし(お前が勝手に忖度したんだろう、俺は命じていない)、上の人間になれば国会に証人喚問されたりする羽目になる。そういったメリットやデメリット、リスクを考慮して、じゃあ自分は今、この環境で忖度に対して、どういった姿勢で臨むのか?覚悟するのか?あえて空気を読まずにスルーするのか?それを選択する必要がある。

迷うよね。迷ったら、決め台詞「ゴーマンかましてよかですか?」、、、違った「好きなようにしてください」(楠木建)ということになるだろう。
忖度に対しては、つかず離れずでやるしかないかな。その時その時の判断になる。