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千葉雅也『動きすぎてはいけない』はタイトルが素晴らしい哲学の本です

http://www.flickr.com/photos/40936370@N00/3808157124
photo by Abode of Chaos


タイトルがすべてではないか。「動きすぎてはいけない」。本当はこれだけで本の中身は白紙でいいのかもしれない。
そういうわけにもいかない。それでは博士号も取得できないし、出版してお金を得ることもできない。

「非意味的切断」は、熱心でありながら執着しないこと、に通じるとふと思った。それはまた、偶然に賭けること、クリック・モーメントにも繋がる。Twitterでは、タイムラインをすべて読まないこと。

千葉さんが書いていることや、ドゥルーズが書いていることのほとんどは意味がわからない。博士論文が元になっているからか。自分の思考に接続するように読書するだけ。

私たちはデフォルト設定において狂っている。(47頁)

たとえば40歳を前にしてセックスに狂っている自分がいる。それを私は、特定の一人に限定するように「治水」している。狂いをコントロールするわけだ。それは「節約economy」かもしれない。冷静に考えると「狂っている」というほどでは無いかもしれない。

生成変化を乱したくなければ、動きすぎてはいけない。(52頁)

ドゥルーズが旅を好まなかった、というインタビューが引用されている。私たちは「コミュニケーション不足」に悩んでいるのではなくて、それが過剰になり、どんなことにも意見を求められるのが苦痛なのだ。自分もたとえばTwitterをやっていると、何かしらつい意見を述べてしまう。仕事で打合せがあると自制しないとしゃべりすぎてしまう。そういう時に「しゃべりすぎてはいけない」と言い聞かせる。

お、「疲労fatigue」という言葉が出てきた。ドゥルーズのキーワードだろうか。だとしたら注目。自分がいつも疲労しているから、その疲労をどう扱うのか気になる。

 ドゥルーズ哲学の特質としての、生成変化の節約(エコノミー)。
 彼は、テクストのところどころに、箴言めいた口ぶりで<節約の要請>を銘記していた。(226頁)

 たとえば梅原大吾さん=ちきりんさんがいくら「変化はそれ自体善である」と言っても、しょっちゅう変化ばかりしていては、エネルギーや情熱が消費されるだけでその内空っぽになってしまうだろう。やはり「節約」が必要なのである。たとえベンチャー企業のスタートアップ時に馬車馬のように働いたとしても、ある種の「節約」を意識しておいた方がいいのではないか。

しかしながら、インターネットとグローバル経済が地球を覆い尽くしていき(接続過剰)、同時に、異なる信条が多方向に対立している(切断過剰)二一世紀の段階において、関係主義の世界観は、私たちを息苦しくさせるものである。哲学的に再検討されるべきは、接続/切断の範囲を調整するリアリズムであり、異なる有限性の間のネゴシエーションである。(230-231頁)

それをドゥルーズは「折衝」と言っていた気がします。この「折衝」という言葉は、私が仕事をする上でも一つの信条となっています。粘り強く「折衝」すること。わかりやすい「正義」に飛び付かないこと。

次の引用は、NHK『哲子の部屋』で國分功一郎さんが参照していたドゥルーズだと思います↓

 みんなに同一化できない、やる気のない他者として再開すること。ドゥルーズによれば、「人間たちは、事実においては、めったに思考せず、思考するにしても、意欲が高まってというよりむしろ、何かショックを受けて思考する」のであり、「思考において始原的であるのは不法侵入であり、暴力であり、それは敵であって、哲学=愛知をまったく仮定することなく、一切は嫌知[misosophie]から出発するのである」。ドゥルーズにとって思考の本当の始まりは、みんな=全世界からのドロップアウトである。(234頁)

→「イメージなき思考」
その条件としての「やる気のなさ」=受動性

ショックを受けて思考する、というのは2011年の東日本大震災を経験した人たちがよくわかることでしょう。
受動性passiveとしての思考は、誰だったかジャック・ケルアックの『路上』を論じたエッセイを思い出させる。佐藤良明さんだったか?
見つけた。古いノートに引用していた。引用の引用だから正確性は保証しない↓

ディーンは吠え、叫び、ファックし、サルはあくまで受身のまま出来事と刺激のすべてに対して分け隔てなく心を開く。サルの役目は圧倒されることだ。すべてを驚きと哀しみと涎をもって受けとめること。(佐藤良明「『オン・ザ・ロード』は何故こんなに特別なのだろう?」)

別の箇所で佐藤さんは「パッシヴでありつづけるところに生じるパッションに心をまかせていく」と書いている。その文章を私はたぶん恋愛状況下で読んだ。読んで引用していた。そのノートはカラフルで文字が小さく詰まっている。

さて、ユクスキュルのエソロジーには、動物はその力能に応じて別々の「環世界 Umwelt」を有するという仮説がある。(341頁)

これは『哲子の部屋』でも取り上げられたユクスキュルのダニの話。
18年間も宙吊り状態に耐えることができるダニ!私は、個人的に恋愛の宙吊り状態について長年考えているため、18年間も耐えることができるダニに驚く。いや、ダニは別に耐えているとは感じていない。単に待っている。人も何が何でも恋愛しようなどとあくせくせずに、その固有の情動を喚起する対象が不意打ちで現れるまでただ単に待っていればいいのではないか。もちろんその対象は、生殖可能な異性に限定しなくてもいいだろう。そういう恋愛論。そう恋愛は、activeな行為ではなく、passive受動的な事件なのである。そこにpassionが生まれる。熱情であり、受難。

唐突にセックスの話になって申し訳ない。代々木忠さんの『プラトニック・アニマル』において、女であれ男であれイクためには自己を明け渡すことが必要になる。徹底的にpassiveになった時にオーガズムが得られるらしいのである。プライドを捨てて、舐めて欲しければ舐めてくださいとお願いすること。マゾヒズムはその極北なんだろうという気がする。
そういえば、AV男優さんのドゥルーズ本があったような気がする。

3つの情動しか持たないダニのように私たちも情動を減らすことを試みるべきだろうか?情動のミニマリスト?『オン・ザ・ロード』のディーンは、ダニのように情動が少なくてシンプルに生きていた。ダニー・ゴー。

なるほど。意味不明ながらも自分が本書やドゥルーズの思想に惹かれる感覚が少し見えた気がする。やはりベクトルが同じなのだ。その私は、博士論文は書けないにしても、このような文章は作ることができる。


ドゥルーズ読み〜1 - シリアルポップな日々:serialpop days