finalventさんの本については、↓この記事で書いたんだけど、付箋をつけた箇所を以下に抜き出しつつ、自分なりに色々考えてみたい。便宜的にレバレッジメモと呼んでいますが、使い方間違っているかもしれません。また、厳密な引用ではないので、本を直接当たってください。
finalvent『考える生き方』を読んだよ〜生きるためのバックビート - シリアルポップな日々
レバレッジメモ
目をつぶっていても、片足を出して次にもう一方の足を出すと前に進む。そんな風に歩いて行けばいいのではないか。「あたりまえ体操」みたい。
心が弱っていると、一歩が踏み出せなくなりますよね。外出できないとか、買い物ができないとか。そういう時に一歩を踏み出すためのアート=技術みたいなものをいくつも持っておくとよさそうです。
finalventさんは、大学院で挫折して、なかなか職は無かった。私も一応、修士課程まで進んだが、研究の道へ進むほどの覚悟と情熱、「やむにやまれぬ心」(『八重の桜』)に欠けていて就職活動をしました。大学に入学するまでに既に2浪していたので、年齢も25歳を過ぎている。トータルで2年間。熊本から福岡博多へ高速バスで何度も通い、時には東京に飛行機で飛びました。民間企業は全くだめで、危うく自衛隊の試験に合格しそうになりながら面接から逃げ、結局今の仕事についたのはラッキーでした。よく何とかなったもんだと。
『ハイドライド』は懐かしいな。私もMSXというパソコンを持っていました。ここでプログラミングを身につけておけばよかったなと思います。そこまでは行きませんでした。
英語も私は駄目で、そう思うとfinalventさんの人生は全然からっぽではない。しかし、自分の人生を誰かと比較することは本当にやってはいけないことだと思います。これをやると辛い。他人の人生は青く見えます。羨み、嫉妬、妬みというダークサイドはすぐ隣にあります。注意です。自分と他人を比較しないというのは、できれば高校生くらいに、遅くても大学生ぐらいの年齢で身につけておかないと以後辛くなる技術だと思います。
福澤諭吉の言葉の引用
「一身独立して一家独立し、一家独立して一国独立し、一国独立して天下独立すべし」(中津留別之書)
福沢諭吉「福翁自伝」を読んだよ - シリアルポップな日々
↑で書いたように諭吉さんはまさしく幕末から明治にかけての「やむにやまれぬ心」で学問をしていた。
必ずしもフリーランスであることが独立ではない。しかし、フリーランスで覚悟は強くなる。
山崎元さんの「山崎商店」という考え方を思い出した。
市民であること。
36歳で突然結婚した。
これは私の方が早かった。2浪して入学した大学ですぐにある女性を好きになって告白したのが6月。早いよね。それから宙吊り期間を過ごしてなんとか恋人同士にまでなることができた。そして、3年ほどつきあってふられた。その彼女としばらくしてからまたつき合うことになった。一度別れた男女がまたつき合うようになれば、それはもう結婚するだろうと自然に考えていたのでその通りになって、就職をきっかけにして結婚した。
finalventさんもそうだろうが、結婚しようと活動はしていない。
一人で生きる覚悟みたいのものを持った方が意外と結婚しやすいのではないか、とは思います。
本とは関係ありませんが、ドラマ『最高の離婚』は結婚について考えるよいドラマだったと思います。
年賀状が子どもの写真は、親バカ。
しかし、年賀状が子どもの写真は、楽です。言葉が少なくて済みます。一人一人のことを考えながら手紙を書くのってなかなか大変な作業です。年賀状でそれは無理です。写真が大きければ、言葉は少なくて済みます。親バカという理由だけではなく、私にはそういう合理的な理由があります。
育児のマニュアルが無い。
そういうものらしく、今でも困ったことや心配事があってGoogleで検索すると上位にくるのは、質問サイトなんですよね。要するに素人の口コミ。これは困ったものです。正直あまり役に立たない。
自然に生殖可能な男女が避妊せずにいると2年ごとに4人生まれるらしい。
我が家では、3人。オリンピックの年、4年ごと。自然に生殖可能な男女が避妊したりしなかったりするとこうなるか。
この辺りは、家族の話題としてfmjでも書こうと思っています。
1995年辺りで既にスリングを使っていたとのこと。2000年辺りからスリングを町で見かけるようになった。それって丁度、ドラマ『とんび』が2000年だった気がします。佐藤健が使っていたのが、スリングですよね?こういったシンクロがあるとうれしいです。
『考える生き方』は深刻な本という感想があったが、読んでみるとそうでもないですよ。
四人子どもが生まれるくだりは、くすりと笑えます。自然なおかしみがあります。こういうのをユーモアと言うのかもしれません。柄谷行人だったかな?元々はフロイトで。
沖縄が独立する可能性
妻の妊娠を契機に沖縄へ移住されたfinalventさん。原発事故の移住とは状況が違います。
子育てっていうか教育もだけど、どんなポリシーでもいいから、芯というか、一貫性というのと違うけど、中心感覚は必要。
— finalventさん (@finalvent) 2013年3月17日
この本能的な中心感覚が男女でやはり違うのではないか。それが、逃げる母親と留まる父親でのギャップとなり、家族の危機を生み出している気がするのですが、、、
上の話ともつながりそうです。finalventさんの場合、フリーランスで市民としての覚悟があったがゆえに、沖縄に移住することができた。多くのサラリーマンや労働者は、その市民としての独立が未熟であるがゆえに、今いる組織から離れることができないのではないか。一方、母親としての女性は、本能的な危機感から子どもを連れて避難しようとする、、、
沖縄の独立については、もしそういう流れになれば、私は認めていいのではという考え方をしています。しかし、独立するのであれば、今以上に自分たちからアメリカに頼る必要が出てくるかもしれません。そうしないと中国のプレッシャーを受けるでしょう。台湾みたいに自分たちの領土だと言いかねませんよね。沖縄の人たちがそういう覚悟を持てば独立ということもありうるでしょうか、、、
ここの部分は、私は特定の主張をしているわけではありません。考えたことを書いている、ということです。
難病「多発性硬化症」から坐禅をするようになった。この辺りでは、夏目漱石『門』を思い出しました。finalventさんには、『三四郎』から『それから』を経由して『門』にいたるメンタリティみたいなものを感じることもあります。ちなみに漱石は7人子どもがいました。実はfinalventさんは、日本近代文学の本流だったりするのかもしれません。
つらいときに坐禅するようになった、というのも漱石を思い出させるところがあります。作法の無い坐禅。ただ座っているだけ。シンプルな。これはいいね。自分も眠れない時にはスマホをオンにしたりせずにまずはこういう坐禅をしてみよう。
大学としてICUを選んだのは偶然だったとのこと。私の場合、地元で通学できる大学でした。地元の国立大学は2年に渡って落とされました。女子大学から共学化して2年目の県立大学は、センター試験のみで受験できるのが大きいポイントでした。代ゼミのお陰で成績がアップしてセンター試験で高得点を叩き出したので、もう二次試験を受ける気力は残っていませんでした。法学部から文学部への変更。結果として、これはよい選択でした。何しろ妻となる女性に入学した学部で出会うことになるので。
というわけで、本当に人生って偶然の積み重ねであり、大学なんてのもどこに行けばいいのかなんて本当はよくわかりませんよね。何しろ人生は単線で別の選択肢を試すことはできないのですから。
ICUでは普通に9月入学生を受け入れているという。それでいいのではないか。全て9月入学に持って行こうとするから問題になる。別に4月入学も9月入学もあっていいのではないか?
- リベラル・アーツを学ぶ大学
もはやそれでは予算がつかない、ということのようで、経済界の要請に応じざるをえないというのが最近の大学を取り巻く状況。大学も成果を求められているようです。
つまらないなあ。
大学改革は、図書館とキャレルが利用できるような施設が公共に普及すればよいのではないか。つまり、カリキュラムの問題ではなくて、環境の問題。大学生に無理に勉強させることはできない。意欲のある学生が十分に勉強できる環境を整えるのが大学の役割ではないだろうか。意欲の無い学生なんて、放っておけばよいのにと私なんかは思います。
大学図書館、そして教員たちといった大学の資産を利用しないのは、本当にもったいないことです。
就職に役立つ知識なんてすぐに廃れてしまう。そんなものを学ぶのに大学の時間を費やすのはもったいないではないか。やはり長い人生においては、リベラル・アーツといった教養が必要なのでは。
恋愛するのだって、文学と結びつけば、ちゃんと教養としてその人の身になるのだから。
教科書はベタなタイトルをしているものを選ぶ。
- ポール・サミュエルソン『経済学』
- ポール・クルーグマン
- ジョセフ・スティグリッツ
契沖は、庶民を集めて万葉集の講義をした。そこから、荷田春満、賀茂真淵、本居宣長などの国文学者を排出した。しかし、契沖自身は何より、学ぶことの楽しさを説いた。
まるでユーリー先生のようですね(『MASTERキートン』)
40歳の焦りは結構いろんな人にあるようだ。厄年に近くなったり、年齢を感じたり、人生の折り返しを実感したりする頃だろうか。いい加減自分の器というか限界も見えてくる。
私も38歳の現在、色々考えるようになりました。
美人やイケメンは一般性を人生に背負っている。一方、普通の人は、自分だけの個別性で生きるしか無い。つまり、この顔で生きる。
心理的には、老人は「かまってちゃんになる」と言っていいだろう。
そういう上司もいる。そして、かまってちゃんは尊敬されない。ますますかまってもらえなくなる。
松浦弥太郎が言っていたことにも通じるけど、40歳過ぎたら、人は与える側に回らないといけないんだと思います。かまって老人は、未だに何かを得たいと思っているわけです。
孤独を穏やかに受けれ入れていくのが賢い老人なのだろうと。そのためにも知性が必要で、そこで若い時のリベラル・アーツが活きてくる気がしました。
かなり長くなりました。自分のためのメモのようなものです。読み返すことで、また考える契機となるようなメモ、それをブログで公開します。
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