所ジョージとパウル・ツェラン

昔読んだ『広告批評』に所ジョージさんのエッセイがあった。
その内容を今でも覚えていて、自分の指針となっている。
それは、会話において言葉をブーメランのようにどんどん投げる、というものだった。
もしかすると記憶違いもあるかも。
所ジョージさんは、言葉をどんどん投げるんだと。
ただし、ブーメランといっても、返ってくることをそれほど期待していない。
気楽に投げる。
時々、思いがけない方向からブーメランが返ってくることがあって、それがおもしろいんだ。
そういうエッセイだった。
それを読んで自分は他人との会話が気楽になった。
会話はキャッチボールでなければならない、という呪いから解放されたようだった。
どんどん言葉を投げる。
それがおもしろいと感じるようになった。
その言葉を、当時読み始めた現代思想や『STUDIO VOICE』などで研ぎ澄ます。
その作業に集中した。

ふと、その所ジョージさんの姿勢って、パウル・ツェランと接続すると思った。
私はツェランをよく知らない。
投瓶通信のように詩を書いた人だと理解している。
詩の言葉を瓶に入れて海に流す。
誰に届くかわからない。

それって所ジョージさんのブーメランと同じだよね。
ツェランの方が深刻、シリアスだが。

私は自分のメンタルを維持するために、ツェランの投瓶通信のようにではなく、所ジョージのブーメランのように言葉を投げることを若い時に学んだのだった。

言葉のブーメランのことは昔から書いている。
Twitterをする時の姿勢としても採用している。
そのブーメランは自分の頭に当たって血を流すこともあるという注意についても書いている。
それって、よく使われるブーメランですね。
自分に刃となって戻ってくるブーメラン。
それは覚悟して、気にしない、ってのが一番だと思います。
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