2冊が手元にある。早くもウンザリしている。読みたくないわけじゃない。読めないんで。食べ過ぎた感じ。
ところがやはり本は読んでみるもんだ。レバレッジメモをとる気力がないのでとりあえずポストイットを貼りながら読み進めて東の593ページ、ここで東は「ライフハック」について語っている。2001年、もちろん「ライフハック」など一言も使っていないが、
僕はかねてよりネットワークにおける自由の問題に関心があり、対談を行ったのも専門家の観点から話を聞くためだった。したがって政府による情報統制や監視が自ずと問題になったのだが、そのときに彼*1は、技術者には独特の美学があって、「言論で戦うよりも盗聴ができないネットワークを普及させちぇばいい」と思っていると述べたのである*2山根自身はそのような傾向に批判的であり、だからこそ対談も実現した。しかし、この発言は工学者の本質をよく伝えてくれている。
たとえ自由が脅かされても、工学者はそれを守るため原理に訴えようとはしない。自由がどうとか人権がどうとか、そういう問題に溯ろうとはしない。かわりに彼らは、手元の材料で当面の自由を効率よく守るための方法を考える。盗聴の危険を感じたとき、人権を武器に法廷や世論に訴えるのか、それとも十分に強力な暗号化装置を開発してしまうのか、ここには文系的な発想と工学的な発想の対照がはっきりと現れている。
この両者のあいだには本質的な差異がある。前者がトップダウン式であるのに対して、後者はボトムアップ式だ。あるいは、レヴィ=ストロースにならって、工学者の発想は「ブリコラージュ的」だと言ってもよい。
長々と引用した。「手元の材料で当面の自由を効率よく守るための方法を考える」という姿勢こそlifehacksだろう。そういった「工学者」に対して東は批判的な立場をとるのだろうが、引用箇所のあとでは、「教養の復活」を本気で願うならば、その「教養」は「まず工学者を惹きつけるものでなければ意味がない」と言っている。ライフハックがその新しい教養となりうるか。しかし、私はそんなことに関心がない。ごめん。あとは誰か考えてほしい。
私自身の立場は現代思想のような「文系的な発想」にウンザリし、「工学的な発想」であるlifehacksにここ2年ほどはまっていると整理しておけばよさそうだ。
Googleがスーツ連中が入ってくることで組織が変質しているんじゃないか、とか、マイクロソフトはまさに「文系的な発想」に染まってしまってツマラナイんだ、とか、アップルはスティーブ・ジョブズがよくも悪くも独裁者だからiPodは素晴らしいんだ、とか、色々考えることができそうだが、それも関心がない。
トップダウンに対してボトムアップ云々という記述はそのままGTDに当てはまりそうだ。
東浩紀当たりの世代は私も含め、遅れて現代思想=ニューアカあたりに浸かって、そこから離れてライフハックだのGoogle、はてななどのウェブ2.0へ走っている、というパターンがそれなりにいるのかもしれない。かもしれない、というしかないのは、東京大学にいた東と違って地方公立大学にいた私の周囲で柄谷行人などを読んでいる学生はほぼゼロだったから。
現在、ライフハックやGTDについて語れる者も周囲には皆無だが、ブログなどでコメントがあったりするんでそれが助かっている。
東浩紀がデリダを使って言う「散種」。あちこちに種をまいておけばいつか実をつけるかも。昔、広告の雑誌に所ジョージがエッセイを載せていて、言葉をブーメランのように投げるという話をしていた。とにかくたくさん投げる。戻って来なくても気にしない。時々、思いがけないところから戻って来たりしてそれが面白い、という内容だった。と思う。投瓶通信という比喩もある。使っていたのは誰だったか。忘れた。
丁度、Googleのスーツ連中について、
というか、Googleは技術会社だと言われているけれど、ソフトウェアエンジニアリングのルールに「売れるかどうかは考えない」等と明記されているのも、見方によってはGoogleの「優秀な」スーツ陣による、「ギーク陣はギーク陣で全力で最高のいいもん作れ、どう売るかは俺達が全力で考えるから」という、覚悟完了のメッセージと受け取れない事もない。
Googleのスーツ連中が本当にこんな覚悟でやっているんだとしたら、このギーグ+スーツにはどこも*3太刀打ちできなんじゃないか。
優秀なスーツ、それは「踊る大捜査線」でいえば、室井さんのような。それは私の理想的な在り方でもある。さ、がんばろ。