國分功一郎『暇と退屈の倫理学』を読んだよ(4)

長々と書いてきましたが國分功一郎さんの読書メモも今回で終わりです。
自分の中では、暇と退屈以上に固有の問題が浮かび上がってきたような気がします。それは「憂鬱」ですね。
國分功一郎『暇と退屈の倫理学』を読んだよ(1) - シリアルポップな日々
國分功一郎『暇と退屈の倫理学』を読んだよ(2) - シリアルポップな日々
國分功一郎『暇と退屈の倫理学』を読んだよ(3) - シリアルポップな日々

レバレッジメモ〜第六章

ユクスキュル
「環世界Umwelt」
坂口恭平さんがよく言うレイヤーのような概念?それぞれの世界が層のようになっているイメージ。ドドールコーヒーのミルクレープ食べたくなりました。
マダニって、最近話題のマダニ。

18分の1秒。それ以内で起こることは人間には感覚できない。したがって人間にとっては、それがそれ以上分割できない最小の時間の器である。

ハイデッガーハイデガー)は人間は特別であるという信念を抱いているので、それぞれに環世界があることを認めない。

「環世界間移動能力inter-umwelt mobitity」=あらゆる生物には環世界の間を移動する能力がある。
人間は他の動物に比べて相対的に高い環世界間移動能力をもつ。
そして、人間は環世界を相当な自由度をもって移動できるから退屈する。
一つの環世界にひたっていれば退屈しない。

レバレッジメモ〜第七章

キルケゴール
「決断の瞬間とは一つの狂気である」
これは私が最近こだわる「やむにやまれぬ心」ですね。これは狂気。『八重の桜』を見ていても、たとえば吉田松陰というのは一つの狂気の塊だったように見えます。
ふと、1995年に私はこういった狂気に陥って一晩寝ないで「決断」して翌日、後に妻となる女性に「告白」したのです。私は愛の奴隷になったというわけです。

人間は、退屈の第二形式に耐えられなくなり、第三形式=第一形式に逃げ込む。その仕事・ミッションの奴隷となることで安寧を得る。
私は1995年、片思いという退屈の第二形式に耐えられなくなり、楽になりたくて告白したようです。この「耐えられなくなり、楽になりたくて告白する」というフローは当時から意識していました。私の友人は、この片思いに留まることを得意としていました。つまり、第二形式に耐えられる、ある意味「成熟した大人」だったのではないでしょうか。

コジェーヴスノビズム

人間の環世界は習慣に強い影響を受ける。習慣とは困難な過程経て創造され、獲得されるものだ。習慣はダイナミック。
いかに習慣を作っていくか、習慣を移行していくか、というのが生きるポイントとなりそうです。これはライフハックのテーマでもありますよね。

人間はものを考えないですむ生活を目指して生きているという事実
考えてばかりでは疲れてしまう。だから人間は、考えないですむような習慣を創造し、環世界を獲得する。
アインシュタインは、毎日着る服を考えて疲れてしまわないように七着同じスーツを準備していたというエピソード。自宅の電話番号は電話帳に載っているので覚えなかったというエピソード。
ライフハックが推奨する自動化もそういうことですよね。
ドゥルーズは、人間がものを考えるのは、仕方なく、強制されてのことである、と言う。ショックを受けて考える。
パッションという感覚ですね。passion.これは熱情、すなわち「やむにやまれぬ心」ではないか。
passive.受身。ショック=不法侵入。

フロイト
性の快楽=高まった興奮を最大限度まで高めることで一気に解消する過程
オルガズムを得ると興奮は一気にさめ、心身は安定した状態を取り戻す。この安定した状態への復帰のために性の快楽はある。

退屈の第二形式には、投げやりな態度と同時に自分に向き合う態度もある。そこには、考える契機となる何かを受け取る余裕がある。
finalventさんの「考える生き方」は第二形式に関係するような気がします。

レバレッジメモ〜結論

結論1=こうしなければ、ああしなければ、と思い煩う必要はない
本書をここまで読んできたことこそ、<暇と退屈の倫理学>の実践の一つ

スピノザ→反省的認識
大切なのは理解する過程→理解する術→生きる術=アート。アート・オブ・ライフ。

結論2=贅沢を取り戻すこと
贅沢とは浪費すること。消費ではない。
ここのところは文字通りではわかるが、ちょっとよくわからないところもあります。
物を受け取るようになること。それがよくわからないのです。消費と浪費の違いがよく見えないというか。
楽しむためには訓練が必要、ということらしいので、自分にはその訓練が足りないのかもしれません。食べ物が例示されていますが、確かに私は何を食べても美味しいと思うのですが満足できないところがあり、それは消費に留まっているからかも。
教養が必要。ここで、finalventさんが言っていた「リベラル・アーツ」を思い出す。
ウィリアム・モリスの構想では、楽しむための訓練が日常的に行われる。アート・オブ・ライフということだろう。

結論3=動物になること
楽しむことは思考することにつながる。ここで、finalventさんの『考える生き方』に接続しそうです。
「私は待ち構えているのだ」とドゥルーズは語ったらしい。<動物になること>が発生する瞬間を待っている。
私は、THE BOOMの「手紙」という歌?を思い出す。その中で、「まるで、みの虫のようにじっと待つしかないんだ」と歌われ、待っているのは「ロックンロールに、こめかみを撃ち貫かれ」る瞬間。

どうすれば皆が暇になれるか、暇を許す社会が訪れるのか。
これはある種の「革命」ですよね。
私は、インターネットを初めとするテクノロジーによって「自由の王国」(マルクス)=<暇な社会>は十分実現可能だと直感的に考えています。
たとえばベーシックインカムのような制度もそこにからんでくるんじゃないかと。
資本主義を否定する必要もない「穏やかな革命」。

レバレッジメモ〜注

セックスですら訓練が必要。
確かに自分の思い込みで訓練をしないセックスだと相手との関係もうまくいかないですよね。
おそらくこうすれば正解というものもなく、その場において身体の組み合わせや時間を丁寧に重ねていくしかない気がします。
そう、<暇な社会>になれば、私たちは愛する人とのセックスに多くの時間を費やすことが可能になりますよね。
子育てだって、暇があった方がいいです。

蛇足

哲学者それぞれの言葉を自分の固有のテーマに引き寄せて読むこと。それでいいんだと思いました。

暇と退屈の倫理学

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