國分功一郎『暇と退屈の倫理学』を読んだよ(3)

國分功一郎『暇と退屈の倫理学』を読んだよ(1) - シリアルポップな日々
國分功一郎『暇と退屈の倫理学』を読んだよ(2) - シリアルポップな日々
引き続き國分功一郎さんの『暇と退屈の倫理学』を読んでいきます。

レバレッジメモ〜第四章

消費には限界がない。満足できない。忌野清志郎かよ。サティスファクション。ストーンズかよ。満足できねえ。延々と繰り返される。消費は過剰になる。過剰になるほど満足の欠如が感じられるようになる。
パチンコがそんな感じですよね。

余暇は活動停止時間ではない。非生産活動を消費する時間。余暇はいまや「俺は好きなことをしているんだぞ」と全力で周囲にアピールしなければならない時間である。
休日に家でなかなかじっとしていられない、という気分はあります。休日どこにも出かけないと何だか損した気分になるような。かといって、出かけても満足できない。

ファイト・クラブ
好きな映画だけど、ストーリーをすっかり忘れています。

(話は逸れるが、こうしたケアの場をきちんと準備できるところは、アメリカ社会の強さである)。
これはもうワクチン行政などを見ていても、アメリカは嫌いだけど、やっぱり凄いんですよねえ。世界の中心はアメリカであって、日本は亜流でしかないと。

人間がだれかに蝕まれるのではなく、人間が自分で自分を蝕むのが消費社会における疎外であるのだ。
現代の退屈は疎外と呼ばれるべき様相を呈している。

ジャン・ジャック・ルソー
自然状態で強い相手から獲物を奪われたりしたときには、「自然の出来事」としかみなされない。つまり、「仕方ない」なあと思ってまた獲物を探すだけ。しかし、社会状態においてはスーパーで買ったリンゴを強い者に奪われたら「仕方ない」とは思えない。平等な権利があり、そこから恨みが発生する。

「自然に帰れ」というスローガンは、ルソーの著作のどこにも見出されない。
キムタクが「ちょ、待てよ」という台詞を発したことが無いようなものか。

ハンナ・アレントハンナアレント)<労働>と<仕事>

  • 労働は人間の肉体によって消費されるものに関わる営み
  • 仕事は世界に存在し続けていくものの創造

私はサラリーマンとして労働をいかに仕事にしていくか、を日々考えている。それはアート化の試みと言ってもいいような気がします。芸術というとちょっと鼻につく感じがするんですよね。

これに対して共産主義社会では、各人はそれぞれに固定されたどんな活動範囲ももたず、どこでもすきな部門で、自分の腕をみがくことができるのであって、社会が生産全般を統制しているのである。だからこそ、私はしたいと思うままに、今日はこれ、明日はあれをし、朝に狩猟を、昼に魚取りを、夕べに家畜の世話をし、夕食後に評論することが可能になり、しかも、決して漁師、漁夫、牧夫、評論家にならなくてよいのである。マルクスドイツ・イデオロギー

マルクスの言う「自由の王国」は、労働日の短縮によってもたらされる暇において考えられている。
共産主義社会というのは、暇な社会ということか。テクノロジーの発達によって人類は労働から解放され、暇になると私も考えていたのに現実はなかなかそうはならない。なんで?

本来性なき疎外→同一性なき差異

レバレッジメモ〜第五章

ハイデッガーハイデガー)は気分というものを徹底して重視した哲学者だった。
ある種の深い退屈が現存在の深淵において物言わぬ霧のように去来している。
ああ、ハイデガーは哲学ではなく、詩であると批判?されるのもわかる気がします。吉田健一みたいな雰囲気?

  1. 退屈の第一形式=何かによって退屈させられること
  2. 退屈の第二形式=何かに際して退屈すること
  3. 退屈の第三形式=なんとなく退屈だ

たとえば会議は第一形式の代表のようなもの、、、
たとえば大変楽しかったけれども退屈したパーティーは第二形式となる。
たとえば日曜日の午後、天文館の通りを歩いている。するとふと感じる「なんとなく退屈だ」。

好きなことをさせつつもじっと眺めている親からは、子どもは強い圧力を感じるだろう。たしかに自分は放任されている。しかし、自分はけっして放免されることがない。しかも、親は控えめに引き下がっているから、面と向かって文句が言えない。
お天道様が見ているよ、という感覚だろうか。<暇ではないが退屈している>という事態→退屈の第二形式
私が陥るのも、この事態かもしれない。そして、退屈というよりは憂鬱、、、

テレビで「VS嵐」を延々と眺めるのは気晴らし。休日に特に欲しいものがないのにイオンに出かけるのも気晴らし。仕事が忙しいとツイッターでつぶやくのも気晴らし。スマホで絶えずLINEのやり取りをするのも気晴らし。
こうした気晴らしとからみあう退屈。
ハイデッガーによればこうした第二形式で生きることは「正気」の一種なのだ。

第三形式のなかで人間は自分の可能性を示される。退屈という気分が私たちに告げるのは、私たちが自由であるという事実そのものであると。
ハイデッガーは、退屈する人間には自由があるのだから、決断によってその自由を発揮せよと言っている。
「いつやるか?いまでしょ!!」みたいな感じ?

【4へ続く】

暇と退屈の倫理学

暇と退屈の倫理学