コンビニ人間に接続した機械が書いた文章

妻に薦められて読み始めた村田沙耶香さんの『コンビニ人間』。
冒頭の描写で引き込まれた。
そして、自分の思考が回り始めて読書が止まった。

機械になる快楽

私が好きなアンディ・ウォーホルの言葉に「私は機械になりたい」というのがある。
コンビニ人間』はそれだと思った。
冒頭の描写は、機械になる快楽について書かれている。
それが理解できる人と理解できない人に区別されるのではないか。
私は理解できる。
むしろ「機械になりたい」と日頃から思っている。

自動生成プロセス

そんな折、『ライティングの哲学』で千葉雅也さんが、「自動生成プロセス」と言っていた。

人間の主体が自分の思いを表現するとかではなく、自分のなかに他者としての機械が動き始めて、なにかできてしまう、ということがクリエイティブの根底にあるんじゃないかと思って、研究でもそういうことを考え始めたんですよ。(p104)

主体ではなく機械として。
仕事でも主体的に考える、悩むのではなく、機械になって自動生成プロセスでやりたい。
それが『コンビニ人間』に感じられた。

文字の跡

再び読書を再開すると、左側のページに「跡」を見つけた。
図書館で借りた本なのだ。
どうやらそのページの上に別の紙を置いて文字を書いた跡のようだ。
老眼になってきているので、眼鏡を外して跡をじっくり見た。
「恵子」「山崎」とどうやら当該見開きページに出てきた人物の名前をメモした跡だとわかった。
(ちなみに主人公の名前は古倉恵子である。)
おそらく登場人物を覚えきれない人が、自分で登場人物リストを作ったのだろう。
アガサ・クリスティとか海外の小説には必ず付いているような人物リストだ。
なぜか日本の小説に人物リストは付かない。
日本語を読める人は日本人の名前はリストが無くても把握できるだろう、ということなのか。
関係なくないか?
こういう跡を付けることに対して怒る人もいるかもしれないが、私はおもしろいと思った。
誰か別の読者の存在とその行動を痕跡を元に想像するのは楽しい。

カウンセリングの無能

13ページ、カウンセリングの無能について。
千葉雅也さんの『現代思想入門』を読んだことで、ラカン派の精神分析に興味を持った。
精神科と心療内科、そして臨床心理士、さらに精神分析とわけわからんと思った。
精神科や心療内科は、医者の領域で、そこでは恵子の両親のように治療を目的としている。
コンビニ人間』でのカウンセリングは臨床心理士かもしれない。
こちらは医者じゃないので、治療ではなく、アドバイスとかになるのだろうか。
一方、精神分析は以上2者とはまったく異なる。
これは、千葉雅也さんからの流れで片岡一竹さんの『疾風怒濤精神分析入門』を読んでインプットしたこと。
いずれにせよ、何か問題を抱えている時に、どれに頼ればいいか、わかりにくい。
特に精神分析については、鹿児島にラカン派の分析家がいるんだろうか?
そういった情報がわかりにくい。
メンタルクリニックも近くにあって行ってみると、どうも先生が信用できなかった。
医者・臨床心理士精神分析家選びは、ギャンブルに近くなる。
これらの領域はちょっと誰か整理しないとほぼ業界全体が詐欺のようにしか思えない。
コンビニ人間』は、ここまで書いてはいないが、「カウンセリングの無能」について書かれている。

治療すべき個性

コンビニ人間』の主人公=古倉さんの感覚は「治す」ものではない。
家族は基本的に善意で心配する。
何か社会基準から見て「問題」があるからと言って家庭に問題があるわけでもない。
それが本来の個性だろうに。
文部科学省が育てる個性は、社会基準の範囲内での個性である。
何がダイバーシティかよって思う。
コンビニ人間』には、人が人を分類するカテゴリーを増やす効果があるのかもしれない。
世界を拡大するのは、よい小説の特徴だ。

天使と非人情

人は他人を自分の世界の基準で分類することで安心する。
古倉さんが地元の「友達」と合っている場面。
30代後半になってもバイトを続けていて、恋愛をしたこともないという古倉さんを周囲は自分の解釈で分類していく。
それを「天使の視点」で不思議に眺める古倉さん。
そうやって『コンビニ人間』では、いつも私たちが自動的に考えていることが「天使」によって相対化されていく。
私が「天使」という言葉を使う時に想定しているのは、ヴェンダースの『ベルリン・天使の詩』である。
人間の傍で、人間を観察するだけの天使。
コンビニ人間』の語り手である古倉さんも一種の「天使」であるように見える。
そして、天使といえば自分の中では夏目漱石草枕』の「非人情」という概念と接続する。
そして、『コンビニ人間』も非人情だと思った。
だから、おもしろい。

納得と理解

人は、理解しようとせず、納得を求める。
地元の友達は、古倉さんを理解せずに、自分の世界に分類して納得したいのだ。
たとえばワイドショーは、理解ではなく、納得のために作られている。
それは人々の欲望から生まれた番組なのだろう。
週刊文春や女性セブンだって同じだ。
しかし、それらのクズのようなメディアの中にいる人間が居直って「視聴者や読者が求めているから」と主張するのは違う。
そこは糾弾したい。
リヴァイ兵長がエレンに「納得できる方を選べ」と言ってきた気がする。
伏黒恵も、自分が納得できることをやるしかない、我を通せと。
そういえば、ハンジさんは巨人を理解しようとしていた。
その姿勢がすげえ。
手術前のインフォームドコンセントは、すべてのリスクを丁寧にくどく説明するせいで、患者や家族の納得感よりも不安感を増す効果が強くなっていると感じた。
訴訟リスク対応でそうせざるを得ないのだろうが。

接続読書

読書は、こうやって自分の世界と勝手に接続していく。
解釈するのではなく、どんどん接続していけばいい。
こういう読み方は、ドゥルーズに接続する。

もうひとつの読み方では、本を小型の非意味形成機械と考える。そこで問題になるのは「これは機械だろうか? 機械ならどんなふうに機能するのだろうか?」、そう問うことだけだろう。(p17)
ジル・ドゥルーズ『記号と事件』

機能主義的な読書。
自分なりに言い方を変えるとその本が接続するかどうか。
コンビニ人間』は、自分の手持ちの様々な概念と接続する。
そこがおもしろい。

世界の終わり

その、ゆっくりと世界が死んでいくような感覚が、心地いい。

古倉さんのその感覚が自分にも接続する。
東京のオフィス街で働いてみたかったなとも思う。
IDカードでゲートを通過してエレベーターでオフィスに上がっていくような世界。
そんなオフィスビルが並ぶ早朝で世界の終わりを感じてみたい。
そこにBoseノイズキャンセリングイヤホンを付けて立ったら最高だと思う。

人間失格

太宰治人間失格』と接続する箇所を見つけた。
おそらく全国で8千人くらい「これ人間失格だ」と思っただろう。
自分なりに「人間」をうまく演じていたつもりが、ある人には見抜かれていたという感覚。
怖れ。
しかし、自分が他人の要素のインプットでできた「機械」だと、なぜばれないようにしないといけないのか。
それは、あれか、子どもの時の経験だな。

他人の怒りに同調する振る舞い

しかし、古倉さんの同僚は悪意を持って指摘したわけではないと思う。
他人の怒りに同調する振る舞いは、好ましいものだという価値観なのかもしれない。
人間失格』の主人公ほど怖れる必要は無い。
実際、古倉さんはそれほど気に病んではいないようだ。
そもそも古倉さんには「悩み」という概念が無い。
社会的な価値観と「調整」することはあっても、悩んではいない。
そこが白羽との違いとなっている。
この「調整」という感覚も、「機械」感がある。

小説の機能

ふと疑問に思ったのは、小説だと主人公の語りや価値観をあっさり受け入れることができてしまうのはなぜだろうか?
現実に古倉さんのような人間が身の回りにいて、すんなり理解できるだろうか?
なかなか難しいと思う。
しかし、小説に書かれると語り手の考えや価値観がおかしいものではなく、真っ当なものに思えるのだ。
これってエクリチュールの機能?
この読者が語り手をあっさり信用してしまう機能を利用した推理小説がある。
ちょっとずるいトリックだが、やられた、と思った。

物語不要論

白羽さんが出てきて、物語が展開し始めて、読みが雑になったかな。
自分がそういう物語を求めていないからかもしれない。
非人情の読書に物語は要らない。
とはいえ、『草枕』にも筋のようなものはあった。
読者の範囲を広げるには、最低限の物語=筋は必要。

一気読み

後半は一気に読み通した。
展開があって、これが物語の動力だろう。
解釈はいいかな。
まとめも不要。
接続読書はそういうことだ。

久々の小説

久しぶりに小説を読み通した。
Excelの読書記録を読み返すと、5月の『老人と海』以来だった。
ヘミングウェイ
小説が読めなくなっている。
ビジネス書もしくは哲学ばかり。
今年2023年読んだ小説はその2本だけだった。
日本語の小説はいつ以来だろう?
これは読書感想文ではない。
これは解釈ではない。
コンビニ人間に接続した機械による文章だ。