前回↓の続きです。第二章から。
國分功一郎『暇と退屈の倫理学』を読んだよ(1) - シリアルポップな日々
レバレッジメモ〜第二章と第三章
西田正規「定住革命」
移動しながら生きていく生活=遊動生活
流行?のノマド?
人類の肉体的・心理的・社会的能力や行動様式は、むしろ遊動生活にこそ適している。だからこそ何百万年もの間、遊動生活を続けてきた、、、
借家主義?
私は借家の方が精神的に落ち着く。しかし、遊動はあまり望まない。実際、結構引っ越しを経験している。飽きるのかもしれない。ドゥルーズがその場にじっとしていてもノマド、みたいなことを言っていなかったか?
布オムツから紙オムツへ
オムツ離れの時期が遅れてきているという指摘。決められた場所で排泄を行うという習慣が人間にとってすこしも自然でないことのあらわれに他ならない。だからこそ習得が困難?
ヴェルサイユ宮殿にはトイレが無い。
遊動生活では、新しい環境に適応しようとするなかで、「人の持つ優れた探索能力は強く活性化され、十分に働くことができる。新鮮な感覚によって集められた情報は、巨大な大脳の無数の神経細胞を激しく駆け巡ることだろう」。
公務員が三年ほどで異動する理由は活性化にある?しかし、昨今は仕事が年々変化しているので、公務員といえどあえて三年ほどで異動させる理由は無いような気がします。もはや何のために異動していたのか?をみんな忘れてしまい、三年で異動という習慣だけが残っているので色々不都合が生じている気がします。
新しい環境での負荷
引っ越し直後の苦労
意外と私は引っ越しをしている。負荷がもたらす快適さを求めているのかもしれません。
私たちは能力を発揮できる機会を求めている。
生きるために次々と課題をこなしていく遊動生活。それは苦しいというより、充実した生活である。生きることと自らの活動ががっちりと組み合っている。
一方、定住生活は人に余裕をもたらす。この余裕が退屈へと移行する。
暇と退屈は違う。
暇は何もすることのない時間=客観的な条件
退屈は何かをしたいのにできないという感情や気分=主観的な状態
今の私は暇は無いけど退屈することが多い感じ。いや、やはり私の気分は退屈というより憂鬱かもしれません。
ボードレール的な問題でしょうか。
20世紀の大衆社会
大衆も暇を手にする。
暇を生きる術を知らないのに暇を与えられた人間が大量発生した。
パチンコやスマホのゲームに吸い取られていくわけですね。
かつての有閑階級の生きる技術=アートが参考になる?
『有閑倶楽部』という漫画に出てくる有閑階級たち。
フォードは労働者の労働時間を制限して十分な休暇を取ることをもとめてが、労働者が休暇中に何をしているのかを探偵やスパイに調査させている。
酷いな。
アントニオ・グラムシは、フォーディズム的な労働の合理化と禁酒主義はまちがいなく関係していると述べている。
大した害も無いと言われる大麻の禁止も何かと関係していそうです。
レジャー産業は何をしたらしいか分からない人たちに「したいこと」を与える。レジャー産業は人々の欲望に応じるのではなく、人々の欲望そのものを作り出す。
パチンコは優れたレジャー産業なのでしょうね。パチンコと競馬が違うのは、前者には終わりが無い、ということをTwitterか何かで見かけました。だから消費し続けてしまうわけで、本当にパチンコは恐ろしいレジャーですね。パチンコ中毒。パチ中。というか、Twitterにも終わりがありませんよね。だから、気をつけないと。
必要のないモデルチェンジを企業も強いられる。
iPhoneもこんなに度々マイナーチェンジとメジャーチェンジを頻繁に繰り返す必要があるのだろうか?<暇と退屈の倫理学>こそは、ポスト・フォーディズムに対する一つのカウンターたり得る。
ここでも思い出すのは、ナガオカケンメイさんの仕事です。
退屈をどう生きるか、暇をどう生きるかという問いが立てられるべきだということを消費社会論の論者たちはまったく理解していなかった。
一方、スチャダラパーは理解していたわけで、本当の知性とはどちらなのでしょうか。