毎日使うのでモバイルシェーバーを買ったよ

出勤前の毎朝の髭剃りがめんどくさい。
そこで電気シェーバーを買った。
電動シェーバーか?
ブラウンのモバイルシェーバーM-90を選んだ。
乾電池式。
ビックカメラオンラインで2,860円。
替え刃無し。
2年くらいで使い切る想定を持っている。
T字カミソリでも替え刃は結構高い。
コスト比較するとどうなんだろう?
でも、冬場は朝の髭剃りが楽になる。
水が冷たいから。
毎日使うと考えれば、安いものだ。
年間稼働日240日、20日休んで220日。
1日10円と見ておけばいい。
毎日使うツールには投資していい。
また、仕事はマスク基本だから、そこまで深剃りを求めていない。
このモバイルシェーバーの機能で十分。
機能はシンプルなものがいい。
オイルも注文した。
シンプルに水洗いして、時々、オイルを付ける。
メンテナンスも楽にしたい。
週末に水洗いしてオイルを塗ることにした。
Google Keepの週末タスクリストに入れた。
それで無駄な思考もない。
ルーティン化。

サードパーティー替刃

Amazonで替刃を発見した。
モバイル純正は無いが、サードパーティ製のようだ。
1,000円未満。
これで十分。

カバーがナイスアイデア(2024年2月4日追記)

本体と一体化しているカバーが良いアイデアだと思う。
くるっと回してカバーをすれば、刃を守るだけではなく、誤ってスイッチもオンにしない仕組みになっている。
全体として機能的に完成されたデザイン。

共感疲労から進化していない人間の脳の問題

「共感疲労」という言葉をテレビで見た。
災害や事故の衝撃的な映像を見過ぎたりして疲労するらしい。
それはある。
人間の脳は、狩猟採集民の頃から進化していない。
色んな本でそれを見る。
人は、衝撃的な場面を見るとアドレナリンが出る。
興奮する。
興奮することで、運動能力が一時的に向上し、生き延びる力となる。
いわゆる「火事場の馬鹿力」というやつだ。
しかし、現代ではテレビやインターネットで衝撃的な場面を見ることができる。
生命の危険は無いのに、無駄にアドレナリンが出る。
そして興奮する。
大型台風が接近すると、子どもだけではなく、大人もはしゃぎがちになるが、それはアドレナリンが出るからで仕方ない。
その時にどう振る舞うかは、その人の意識的な選択にかかっている。
アドレナリンに身をまかせて脊髄反射する人も多い。
そして、SNSにペットも客室に乗せろ、とか余計なことを書いてしまい、炎上する。
これは進化していない人間の脳の問題だから、仕方ない。
Twitterに書いた言葉をすぐに投稿できない機能があったらいいなとふと思いついた。
できることは、その仕組みを理解し、意識的な選択をすることだろう。
脊髄反射Twitterに投稿したくしたくなったら、その勢いでぽちっと寄付するとか。
妻の言葉を無邪気にSNSにアップしてしまう笠井信輔は、おそらく善意の人なのだろう。
思慮には欠けるようだ。

映画『PERFECT DAYS』を見たよ~言語化しないスタイル

映画『PERFECT DAYS』を妻と見てきた。
翌日から帰省したので、落ち着いて振り返る時間が無かった。
帰省や旅行といった非日常は、主人公である平山=役所広司の世界には無かった。

ルーティン化された生活

平山の日々はルーティン化されている。
映画で何度か繰り返される。
しかし、見ていて飽きないのは、見せ方を少しずつ変化させているからだろう。
カメラの位置とか。
このようなルーティンへの憧れがある。

言語化しない平山

平山は本を読む。
古本屋で文庫本を買って、寝る前にそれを読む。
スナックのママ=石川さゆりが言っていたように平山はインテリのようにも思える。
しかし、平山は決して書かない。
日記のようなものを書いているルーティンは無かった。
記録=ログとしてやっているのは、仕事中の昼休みに主に撮影するフィルムカメラから現像された写真のみである。
孤独を生きることを選択した平山にとって、日記のような書き言葉=エクリチュールには気をつけた方がいい。
自分の内面をつい書いてしまうから、人は病んでいく。

天使としての平山

監督は『ベルリン・天使の詩』のヴィム・ヴェンダースである。
よく空を見上げる平山は、天使を見つけようとしているように思える。
たとえばホームレス=田中泯は天使かもしれない。
ホームレスは、平山以外の人間からは見えていないようにも見えた。
ベルリン・天使の詩』は、天使が人間になる物語だったが、平山は人間から天使になりたいと思っているようだった。
天使のように認識に徹する平山は、自分を汚い存在のように扱う母親を見ても怒ったりしない。

他人の心に踏み込まない人々

駅地下の飲み屋の大将は、平山の無口な性格を理解して動いていた。
アンチ巨人のうざい客をうまくあしらったり。
古本屋の主人も、カメラ屋の店主も、決して平山の心に土足で踏み込んだりしない。
カメラ屋は、翻訳家の柴田元幸だそうである。
平山も、他人の心にふみこまない。
だから、物語が動き出さない。
ニコがなぜ家出してきたのか、聞かない。
パティ・スミスを気に入った女性がなぜ涙したのか、聞かない。
スナックのママの元夫は勝手に話したので聞いたが、それには何もいわず、影踏みをやろうと言う。
ただ、この時は平山はいつもより饒舌だった気がする。
物語ストーリーを動かすのは、おせっかいなヒーローたちだ。
主人公が内向的でも、美人のヒロインが物語の中心へ引っ張り出してくれる。
そういった物語の力学を回避して平山は生きている。
この姿勢では、いわゆるサラリーマンの、特にホワイトカラーの企画的な仕事はできない。
電通マンにはなれない。

永遠の思春期

スナックのママと元夫を見て、平山は動揺する。
動揺して、長く吸っていなかった煙草を買ってしまう。
しかも、ピース。
それを川縁で吸って、むせてしまう。
丸で思春期ではないか。
永遠の思春期おっさん。
何歳になっても、生活をルーティン化しても、悟ることはできない。
花様年華』の後日、『2046』のトニー・レオンもしかり。
ちなみに『2046』のトニー・レオンは書く男だったが、平山は決して書かない。
いや、平山にも「中年の危機」はあっただろう。

ハードボイルド

平山の受け身は、一種のハードボイルドだ。
決して自分からは動かない。
エピソードは3件かな。
いずれも別の世界から、平山の世界に飛び込んでくる。
それに揺れ動きながら、いわゆる普通の映画になるような変化が平山に起きるわけではない。
何があっても、平山はルーティンを変えないだろう。
確執があったことをうかがわせる父親にも会いにいなかいだろう。

企業案件

なぜかデザイン化された公衆トイレしか描かれない。
汚物も出てこない。
それは、ユニクロ電通関係者が仕掛けた企業案件だからだ。
そういう解説を見て、深く納得した。
だからって、映画を嫌いになるわけではない。
物語は動かさないが、映画の外では仕掛けがほどこされている。
策略によって大人の世界は動いている。
それが観客によっては透けて見えて鼻につく。
見えなかった観客はハッピーである。
映画の中にとどまれたわけだ。

とりあえず

とりあえず、ここら辺で投稿しておこう。
後で追記すればいい。
年末、大晦日だからって2023年を振り返ったりはしない。
それが自分のスタイル。
いつもの日曜日のように安部礼司聴きながら、こうやってブログを更新する。

環世界(追記2024年1月2日)

正月にたまたま読んでいた丹生谷貴志天皇と倒錯』にユクスキュル「環世界」についての記述があった。

ヤーコブ・フォン・ユクスキュルは、世界はいわばそれぞれに交錯しつつ自足した諸生物、諸事物の泡の様な環境世界 Umwelt の無限の併置、連鎖としてある、と述べている。(p98)

ここの「環境世界」は「環世界」のこと。
この記述は、平山の台詞と接続した。

この世界は本当はたくさんの世界がある。つながっているように見えても、つながっていない世界がある。

交錯するがつながってはいない平山と他の人々。
諸エピソードが泡の様に描かれる映画。
ちなみに「接続」というのは、自分のキーワードである。
平山の他人との接続するスタイルは、自分にとって好ましいスタイルだった。
そういう平山のスタイルは、映画が企業案件かどうかとか、トイレがきれいすぎてリアリズムに欠けているとか、そういった解釈とは一切関係が無い。

ネタバレは予告編で(追記2024年1月2日)

『PERFECT DAYS』にはネタバレが無い。
というか、予告編でほとんどネタバレしている。
予告編以上のエピソードは起こらない。

追記2024年1月6日_中年の危機を乗り越えた平山

上記本文に追記した。
12月28日に見てから、色々と断続的に考えているので、色々と接続する。
接続したら書いておく。
平山と違って、自分は書く男である。
平山は書かない。
書かないことで「中年の危機」をやり過ごしたのかもしれない。
平山に中年の危機はあっただろうか。
その時は旅に出たり、ドライブ・マイ・カーしたりしただろうか。
あまりそうは思えず、同じようなルーティンをやっていた気がする。

平山の謎_膨大な時間の過ごし方(追記2024年1月7日)

また追記。
平山の謎は、膨大な時間の過ごし方である。
テレビもスマホも無い自宅。
インターネット環境は無いようだ。
平日、仕事が終わって銭湯に行って一杯飲んで帰宅して本を読んで寝るだけでも、おそくら数時間の余裕がある。
休日はまとめてコインランドリーで洗濯、部屋の掃除、写真の現像、行きつけのスナック(飲み屋?)に行っても、膨大な時間があるだろう。
その時間を平山はどのように過ごしているのだろうか。
時間に耐えられず、人はアル中になったり、YouTube動画で時間を潰したり、電通で無くてもいいイベントを企画したり、そのイベントに参加して楽しい気分になったりするのである。
平山はその時間をどういなしているのだろうか、気になった。
平山の平日と休日のタイムスケジュールまで細かく設定してあるだろうか?
あるいは役者さんが独自に細かい肉付けで設定しているかもしれない。
役所広司さんに今度会ったら聞いてみよう。
自分は、中途覚醒で不眠に陥ると今だとスプラトゥーン3をやる。
そして、このようなブログ更新。
いずれにせよ、インターネットが必須。
アナログの思考は、窓の外の暗闇を凝視していた吉田健一のように、強度の高い教養が無いとダークサイドに陥る危険性がある。
気をつけよう。
凡人はインターネットで暇潰しするくらいでちょうどいいのかもしれない。
平山は凡人ではない。
その謎が気になっている。

感染動機

鈴木宏昭『私たちはどう学んでいるのか』で宮台真司の「感染動機」が紹介されている。
これは、誰かモデルを設定し、その人のようになりたい、という動機である。
感染動機があれば、学習そのものが快楽といった内発的な動機に基づく学習に接続する。
一旦、内発的動機づけによる学習サイクルが回り出せば、勝手に成長する。
情熱大陸へようこそ。

代々木ゼミナール

私は、代々木ゼミナールで感染した。
しかも、複数の講師に感染し、学習することの快楽が爆発した。
結果、それほど勉強したという自覚が無いものの、成績は向上し、大学入試センター試験で高得点を取ることができた。
そうしてやっと地元の公立大学へ合格できた。

子どもたち

自分の子どもたちを見ていると、この感染動機に欠けている。
ように見える。
まあ私も19歳でやっと感染したのだから、長い目ロングスパンで見る必要があるかもしれない。
子育ては忍耐だと思う。
長い時間待つことを強いられる。
自分は、待つことができないまま、あれこれ子どもたちに対して働きかけを行ってしまって、かえって心理的安全性を削ってしまったかもしれない。
馬を水辺に連れて行っても、無理矢理水を飲ませることはできない。
環境を整えても、無駄になることも多い。
大学や塾の教育費が無駄に思えることもあるが、それは仕方ない。
これってピーター・センゲが言うフィードバックの「遅れ」でもあるか。

子育てに正解はない

しかし、子育てに正解はない。
子育てに関する選択を後悔する必要もない。
これからしかない。
NextAction思考でやる。
コンビニ人間』で同居する人間をペットのように取り扱う感覚はおもしろかった。
餌をやる発想。

コンビニ人間に接続した機械が書いた文章

妻に薦められて読み始めた村田沙耶香さんの『コンビニ人間』。
冒頭の描写で引き込まれた。
そして、自分の思考が回り始めて読書が止まった。

機械になる快楽

私が好きなアンディ・ウォーホルの言葉に「私は機械になりたい」というのがある。
コンビニ人間』はそれだと思った。
冒頭の描写は、機械になる快楽について書かれている。
それが理解できる人と理解できない人に区別されるのではないか。
私は理解できる。
むしろ「機械になりたい」と日頃から思っている。

自動生成プロセス

そんな折、『ライティングの哲学』で千葉雅也さんが、「自動生成プロセス」と言っていた。

人間の主体が自分の思いを表現するとかではなく、自分のなかに他者としての機械が動き始めて、なにかできてしまう、ということがクリエイティブの根底にあるんじゃないかと思って、研究でもそういうことを考え始めたんですよ。(p104)

主体ではなく機械として。
仕事でも主体的に考える、悩むのではなく、機械になって自動生成プロセスでやりたい。
それが『コンビニ人間』に感じられた。

文字の跡

再び読書を再開すると、左側のページに「跡」を見つけた。
図書館で借りた本なのだ。
どうやらそのページの上に別の紙を置いて文字を書いた跡のようだ。
老眼になってきているので、眼鏡を外して跡をじっくり見た。
「恵子」「山崎」とどうやら当該見開きページに出てきた人物の名前をメモした跡だとわかった。
(ちなみに主人公の名前は古倉恵子である。)
おそらく登場人物を覚えきれない人が、自分で登場人物リストを作ったのだろう。
アガサ・クリスティとか海外の小説には必ず付いているような人物リストだ。
なぜか日本の小説に人物リストは付かない。
日本語を読める人は日本人の名前はリストが無くても把握できるだろう、ということなのか。
関係なくないか?
こういう跡を付けることに対して怒る人もいるかもしれないが、私はおもしろいと思った。
誰か別の読者の存在とその行動を痕跡を元に想像するのは楽しい。

カウンセリングの無能

13ページ、カウンセリングの無能について。
千葉雅也さんの『現代思想入門』を読んだことで、ラカン派の精神分析に興味を持った。
精神科と心療内科、そして臨床心理士、さらに精神分析とわけわからんと思った。
精神科や心療内科は、医者の領域で、そこでは恵子の両親のように治療を目的としている。
コンビニ人間』でのカウンセリングは臨床心理士かもしれない。
こちらは医者じゃないので、治療ではなく、アドバイスとかになるのだろうか。
一方、精神分析は以上2者とはまったく異なる。
これは、千葉雅也さんからの流れで片岡一竹さんの『疾風怒濤精神分析入門』を読んでインプットしたこと。
いずれにせよ、何か問題を抱えている時に、どれに頼ればいいか、わかりにくい。
特に精神分析については、鹿児島にラカン派の分析家がいるんだろうか?
そういった情報がわかりにくい。
メンタルクリニックも近くにあって行ってみると、どうも先生が信用できなかった。
医者・臨床心理士精神分析家選びは、ギャンブルに近くなる。
これらの領域はちょっと誰か整理しないとほぼ業界全体が詐欺のようにしか思えない。
コンビニ人間』は、ここまで書いてはいないが、「カウンセリングの無能」について書かれている。

治療すべき個性

コンビニ人間』の主人公=古倉さんの感覚は「治す」ものではない。
家族は基本的に善意で心配する。
何か社会基準から見て「問題」があるからと言って家庭に問題があるわけでもない。
それが本来の個性だろうに。
文部科学省が育てる個性は、社会基準の範囲内での個性である。
何がダイバーシティかよって思う。
コンビニ人間』には、人が人を分類するカテゴリーを増やす効果があるのかもしれない。
世界を拡大するのは、よい小説の特徴だ。

天使と非人情

人は他人を自分の世界の基準で分類することで安心する。
古倉さんが地元の「友達」と合っている場面。
30代後半になってもバイトを続けていて、恋愛をしたこともないという古倉さんを周囲は自分の解釈で分類していく。
それを「天使の視点」で不思議に眺める古倉さん。
そうやって『コンビニ人間』では、いつも私たちが自動的に考えていることが「天使」によって相対化されていく。
私が「天使」という言葉を使う時に想定しているのは、ヴェンダースの『ベルリン・天使の詩』である。
人間の傍で、人間を観察するだけの天使。
コンビニ人間』の語り手である古倉さんも一種の「天使」であるように見える。
そして、天使といえば自分の中では夏目漱石草枕』の「非人情」という概念と接続する。
そして、『コンビニ人間』も非人情だと思った。
だから、おもしろい。

納得と理解

人は、理解しようとせず、納得を求める。
地元の友達は、古倉さんを理解せずに、自分の世界に分類して納得したいのだ。
たとえばワイドショーは、理解ではなく、納得のために作られている。
それは人々の欲望から生まれた番組なのだろう。
週刊文春や女性セブンだって同じだ。
しかし、それらのクズのようなメディアの中にいる人間が居直って「視聴者や読者が求めているから」と主張するのは違う。
そこは糾弾したい。
リヴァイ兵長がエレンに「納得できる方を選べ」と言ってきた気がする。
伏黒恵も、自分が納得できることをやるしかない、我を通せと。
そういえば、ハンジさんは巨人を理解しようとしていた。
その姿勢がすげえ。
手術前のインフォームドコンセントは、すべてのリスクを丁寧にくどく説明するせいで、患者や家族の納得感よりも不安感を増す効果が強くなっていると感じた。
訴訟リスク対応でそうせざるを得ないのだろうが。

接続読書

読書は、こうやって自分の世界と勝手に接続していく。
解釈するのではなく、どんどん接続していけばいい。
こういう読み方は、ドゥルーズに接続する。

もうひとつの読み方では、本を小型の非意味形成機械と考える。そこで問題になるのは「これは機械だろうか? 機械ならどんなふうに機能するのだろうか?」、そう問うことだけだろう。(p17)
ジル・ドゥルーズ『記号と事件』

機能主義的な読書。
自分なりに言い方を変えるとその本が接続するかどうか。
コンビニ人間』は、自分の手持ちの様々な概念と接続する。
そこがおもしろい。

世界の終わり

その、ゆっくりと世界が死んでいくような感覚が、心地いい。

古倉さんのその感覚が自分にも接続する。
東京のオフィス街で働いてみたかったなとも思う。
IDカードでゲートを通過してエレベーターでオフィスに上がっていくような世界。
そんなオフィスビルが並ぶ早朝で世界の終わりを感じてみたい。
そこにBoseノイズキャンセリングイヤホンを付けて立ったら最高だと思う。

人間失格

太宰治人間失格』と接続する箇所を見つけた。
おそらく全国で8千人くらい「これ人間失格だ」と思っただろう。
自分なりに「人間」をうまく演じていたつもりが、ある人には見抜かれていたという感覚。
怖れ。
しかし、自分が他人の要素のインプットでできた「機械」だと、なぜばれないようにしないといけないのか。
それは、あれか、子どもの時の経験だな。

他人の怒りに同調する振る舞い

しかし、古倉さんの同僚は悪意を持って指摘したわけではないと思う。
他人の怒りに同調する振る舞いは、好ましいものだという価値観なのかもしれない。
人間失格』の主人公ほど怖れる必要は無い。
実際、古倉さんはそれほど気に病んではいないようだ。
そもそも古倉さんには「悩み」という概念が無い。
社会的な価値観と「調整」することはあっても、悩んではいない。
そこが白羽との違いとなっている。
この「調整」という感覚も、「機械」感がある。

小説の機能

ふと疑問に思ったのは、小説だと主人公の語りや価値観をあっさり受け入れることができてしまうのはなぜだろうか?
現実に古倉さんのような人間が身の回りにいて、すんなり理解できるだろうか?
なかなか難しいと思う。
しかし、小説に書かれると語り手の考えや価値観がおかしいものではなく、真っ当なものに思えるのだ。
これってエクリチュールの機能?
この読者が語り手をあっさり信用してしまう機能を利用した推理小説がある。
ちょっとずるいトリックだが、やられた、と思った。

物語不要論

白羽さんが出てきて、物語が展開し始めて、読みが雑になったかな。
自分がそういう物語を求めていないからかもしれない。
非人情の読書に物語は要らない。
とはいえ、『草枕』にも筋のようなものはあった。
読者の範囲を広げるには、最低限の物語=筋は必要。

一気読み

後半は一気に読み通した。
展開があって、これが物語の動力だろう。
解釈はいいかな。
まとめも不要。
接続読書はそういうことだ。

久々の小説

久しぶりに小説を読み通した。
Excelの読書記録を読み返すと、5月の『老人と海』以来だった。
ヘミングウェイ
小説が読めなくなっている。
ビジネス書もしくは哲学ばかり。
今年2023年読んだ小説はその2本だけだった。
日本語の小説はいつ以来だろう?
これは読書感想文ではない。
これは解釈ではない。
コンビニ人間に接続した機械による文章だ。

キレる老人が増えている仮説

よく報道で「最近、キレる老人が増えている」ということが言われる。
現実でも聞く。
それを誰か数字で示して欲しいのだが、見たことが無い。
そこでとりあえずの仮説を思いついた。
それは、「団塊の世代+戦争を知らない世代」仮説だ。

団塊の世代

団塊の世代後期高齢者に突入しつつある。
団塊の世代は、人口が最も多い世代だ。
「キレる」人間の割合が一定であれば世代人口が多ければ、当然、キレる人の数も多くなる。
それが1点目。

戦争を知らない世代

また団塊の世代は、戦後生まれで戦争を知らない世代だ。
子どもの頃は日本はまだ貧しかったが、その後、右肩上がりで成長を経験してきた。
団塊の世代は、戦争自体も体験していない。
教育は戦後の自由主義教育を受けてきた。
学生運動では、やりたい放題やって、世代としては何ら総括しないままのうのうと社会復帰して多くが適当なポジションにおさまった。
そういう世代なので、我慢する能力が世代全体として欠如しているのではないか。
忍耐ができない。
つまり、「キレる」割合が増加する。
これが2点目。

団塊の世代+戦争を知らない世代」仮説

よって「団塊の世代+戦争を知らない世代」仮説としては、

世代として人口が多い×「キレる」割合が増えている=キレる老人が増える

ということになる。
この仮説を「数字・ファクト・ロジック」(出口治明)で検証すれば、社会科学になるのかな。

あくまで仮説

更に、認知症の数が増えているせいだ、とか、コロナ禍でストレスが蓄積されたのではないか、とか、他にも様々な仮説がある。
自分も含めてみんな仮説は色々と思いつく。
大事なのは検証することなのだが、これが難しい。
まあ私もフルタイムの仕事を持っていて、自分の仮説を検証する余裕が無いので、こうやってブログに書いて放置することになる。
あくまで仮説だという認識は持っておきたい。
そして、とりあえず投稿しておく。

分散思考とライティングの哲学: アウトライナーの力で広がる思考の多様性

千葉雅也さんの『現代思想入門』からの流れで今『ライティングの哲学』を読んでいる。
読んでいると自分も何か書きたくなるので、それだけでも有用だ。

ライティングの哲学

『ライティングの哲学』を読んで、アウトライナーを試してみようと思った。
4人の著者の一人が千葉雅也さんで、読書猿さんもいる。
あとの2人は初見。
基本的に座談会、会話形式の本なので流し読みでいい。
それで頭にインストールされたものを武器にする。
いつもは本をブックスタンドに立てて、Excelで引用メモを作るのだが、この本でそれはしない。

GTD

千葉雅也さんはGTDもインストールされている。
GTDに言及する哲学者を初めて見た。
その点で信用できる。
自分の感覚とGTDを経由して接続する。
Twitterもフォローして、本もできる限り読んでいる。
GTDは自分の中にインストールされていて、無意識に収集やタスク管理として実践している。
自分のカスタマイズを重ねて、方法としてはデビッド・アレンから離れている気がする。
この辺りも具体的に書けばブログ記事になると思ったが、ここでは広げない。

書き方の自由

『ライティングの哲学』4人の会話を読んでいると、書き方は自由だと思った。
自分に合った方法を作ればいい。
GTDをカスタマイズしたのと同じことだ。
自分なりの書き方の方法を作っていくのって、フーコーの「自己への配慮」にも接続する気もした。
フーコーはまた別に考えるとして「書き方の自由」はこの記事の結末に接続する。

ポメラDM200

ふと検索すると、すでに手持ちのポメラDM200にアウトライナー機能があることがわかった。
ポメラDM200は「デジタルメモ」ツールで、キーボードがついていてパソコンではない。
ライティングに特化したデジタルツールだ。
アウトライナー機能は、知っていたが、ただの見出しとして使っていた。
階層を深くできることは知らなかった。
早速、この原稿を書くのに活用してみることにした。
そうか今はDM250が出ているのか。

ピリオドとシャープ

ポメラDM200ではピリオドもしくはシャープ記号を使うことで階層を作ることができる。
今までただの見出し、タイトルとしてシャープを使っていたが、階層を深くするアウトライナーとして使うのであれば、ピリオドの方が見た目すっきりする。
はてなブログにする時は、ピリオドを「*」に置き換える必要があるが、そのプロセスで文章を整えたらいい。

ショートカットメモ

  • Ctrl+↑↓でアウトラインの順番を入れ替えることができる。

そもそもこのアウトラインの項目?見出しと本文のセットを何と呼べばいいのだろうか。
ここ分かったら後で書き換えよう。
どうやら見出しをアウトラインというのかな。

  • Alt+Tabでアウトライン見出しと本文を往復できる。

本当は、こういうショートカットのメモは、Google Keepなんかにメモしておいた方がいいのだが、今は4-hours writing(下記参照)をやっているので記事本文に埋め込んでおく。
自分のブログも時々検索すると有益な情報が得られる。
あとからGoogle Keepに転記すればいい。
転記した。

仕事にアウトライナー活用

仕事でもアウトライナーは使えるか。
ポメラDM200を職場に持って行ってみるか。
職場にはiPadがあるが。
思考を整理するのに、アウトライナーはいいかも。
プロジェクトのたたき台を作るとか。

QUADERNOよりポメラDM200

ちょうど1年前にQUADERNOを買った。
いわゆる電子ペーパーで、手書きできる。
1年使ってみて、最近は使用頻度が低下している。
このポメラDM200は、もう何年になるか。
時々、使用しなくなる時期があるが、また復活する。
ライティングツールとして、ポメラDM200はすぐれている。
DM200で10年はいけると思うが、後継機をどうしようか。
データを確認したら2017年に購入していて、6年経過していた。
シンプルなツールなので劣化も感じない。
まだまだ使える。

手書きよりタイプ

手書きよりタイピングの方がたくさん書ける。
そこで晩年のブコウスキーに接続した。
『死をポケットに入れて』という日記形式の本でブコウスキーマッキントッシュを使って原稿を書いていた。
書いている文体や内容から、デジタルツールなのは意外だった。
おそらくブコウスキーも、脳内からほとばしる言葉のスピードについていくためにはキーボードの方が良かったのではないか。

手書きは思考

一方、手書きは思考。
アウトライナーから話題がずれているが続ける。
QUADERNOは、手書きであれこれ思考するのに向いている。
メリットは、手書きでありながら、紙という物質が増えないことだ。
『ゼロ秒思考』の赤羽雄二さんは、A4一枚を横にしたアナログ手書きを進めると思うが、その方法だと紙が増えてしまう。
赤羽さんは、そんなの大した量じゃないと言うだろうが。
いずれにせよ、思考するには手書きの方がいい。
タイピングは、すでに思考しているものを脳内から吐き出すイメージだ。
QUADERNOも時々、思考するために使いたくなると思う。
複数のとがったツールがあるといい。
QUADERNOもポメラDM200もとがっている。
こういうニッチなツールに惹かれる自分がいる。

複数の方法

複数のとがったツールを使い分けるように、書き方の方法も複数あっていい。
スプラトゥーン3で複数のブキを使うようなものだ。
その時の気分で使い分ける。
それが楽しい。

4-hours writing

自分の書き方の方法としては、4-hours writingというのがある。
これはレイモンド・チャンドラーが発祥。
具体的には下記に書いています(もう13年前)。
akizukid.hatenablog.com

何かを書こうと思えば、一日4時間は机に向かって、書くこと以外のことはしてはいけない、という方法。
ぼーっとしてもいいが、スプラトゥーン3をやってはいけない。
ストイックな方法だと思う。
『ライティングの哲学』でのアウトライナーを活用した書き方とは、対照的だ。
今、自分は土曜日の朝にコーヒーを淹れて、ダイニングテーブルでこの原稿を書いている。
ツールはポメラDM200だ。
ポメラDM200は、4-hours writingに向いている。
ついTwitterをしたりできないからだ。
集中せよ。
集中と分散のバランス。

投資は分散

ライティングとしては集中した方がいい。
しかし、投資は分散だ。
自分は、水瀬ケンイチさんと同じくeMAXIS Slim 全世界株式(オール・カントリー)をつみたてNISAで積み立てている。
いわゆるインデックス投資だ。

これは分散。
一方、先日亡くなったチャーリー・マンガーは分散投資を下策だと考えていた。
マンガーは、ウォーレン・バフェットの右腕である。

この2人の投資方法は素人では真似しがたい。
集中投資だ。
銘柄選択にエネルギーを集中して、その銘柄が十分に安いタイミングで一気に購入し、バイアンドホールドする。
タイミングが来るまで、多額の資金を抱えたまま待つことができる。
ホームランボールが来るまでぴくりとも動かないバッター。
それは誰にでもできる方法ではない。
投資でも複数の方法がある。
バフェットは、一般にはインデックス投資を勧めている。

分散ライティング

というわけで、分散ライティングというのもありではないか。
この記事は、意図的に話題を分散させている。
アウトライナーをメインとしながら、投資にまで広げている。
分散させる。
そして、アウトライナーに戻ってくればいい。
時々、QUADERNOで手書きするのもいい。
書き方の方法も分散させる。
思考の多様性にも接続するだろうか。
思考のダイバーシティ

アウトライナーじゃなくてもいい

思ったのは、書き方のツールはアウトライナーにこだわらなくてもいい。
つい「どのアウトライナーがいいのか?」といった縛りを自らに課してしまうが、それで書く呪力が上がるものではない。
今、この原稿はポメラDM200のアウトライナーモードで書いているが、重要なのはポメラDM200で書くことであって、たぶんアウトライナーではない。

まとめ

まとまるものではなく、この記事もブリコラージュとして後日、追記・修正していくので、とりあえず3,000字近くなったこの辺りでブログにアップしようと思う。
ブリコラージュについては下記からリンク先の読書猿さんを参照してください。
読書猿さんは『ライティングの哲学』の4人の一人。
「バフェットのように読み、レヴィ=ストロースのように書く」というキャッチコピーはいいね。
akizukid.hatenablog.com