他人の声に対する神経症に対する書くことの効能

隣人の息子がうるさい。
無駄に声がでかい。
この家の壁が薄いのも良くない。
家族の笑い声も神経に障る。
他人の声が聞こえてくるのに耐えることが厳しい。
耳栓も完璧ではない。
パーフェクト耳栓を探し求めている。
ノイズキャンセリングイヤホンは試していない。
音楽をイヤホンで聴くのがベターだが、音楽を聴く気分じゃない時がある。
まったき無音が欲しいのだ。
すべての音は不要だ。
ジョン・ケージが無音室に入ったら、何か小さな音が聞こえた。
それは自分の体の神経か何かの音だった。
そういうエピソードを思い出した。
出典に当たらないといけない(要確認)。
そう記載して先へ進む。
ちょっと戻るが、段ボールベースでの無音ブースを室内に作ることはできないだろうか。
夏の暑さ問題があるか。
ある程度扉を開放して冷やしてから籠るとどうか。
色々と試したいことはある。
この音に対する神経症は、おそらく仕事やプライベートに子育てと色々なワークライフがうまくいっていないことに起因している可能性がある。
カウンセリングを受けてはどうだろうか。
まず予約するのがめんどくさい。
クリニックへ通う気力すら無い。
寝不足も一つの要因かもしれない。
寝不足については、眠りの浅さや継続した睡眠が取れない問題がある。
これは加齢と運動不足のせいか。
加齢は臭いの問題もある。
臭いは、愛を遠ざける。
マスクも取らない。
48歳の私はもうこの生において、他人と触れることはなく、死ぬまで生活費を稼いで、死ぬのだろう。
情熱大陸に出るような情熱も持つことはできなかった。
後悔するのかな?
実は意外と今までの人生で後悔することは思い出せない。
子育てですら、多くの「失敗」をした気がするが、不思議と後悔は無い。
ニーチェの運命愛のような感覚がある。
こうするしかなかったのだ。
受け入れろ。
それが自分だ。
その点では、ポジティブなメンタルかもしれない。
よくわからんね。
自分で自分はよくわからない。
だから、こうやって言葉にしてみる。
投稿して、今やはてなブログではほとんど他人のリアクションを期待できないが、それでも後日、読み返してみると、そこに「自分」を発見することがある。
書くということは、未来の自分への手紙のような行為かもしれない。
他人の声に対する神経症から、焦点がずれてきた。
この時点で、これだけ集中して一気に言語化して書いていると隣人の声も気にならなくなるのだ。
やはり書くことは一つの救いとなる。
苛々する自分を言語化できてうれしい、という感覚、それは俳句や詩について夏目漱石草枕』の画工が書いていたことに接続する。
今読んでいる近藤康太郎さんの『三行で撃つ』にも同じ趣旨のことがあった。

うたにするとき、悲しみの涙は、自分から遊離する。自分は泣くことができる人間だという、うれしさだけのうたになる。p297