佐藤優『国家と神とマルクス』を読んで、自分の「神」は何だろう?

本書を読んで驚きました。佐藤優さんの思想の広さ、深さに。頭がいいというより、よく勉強されている感じを受けます。
自分も勉強しなきゃって意識が出てきます。また、じゃあ、自分の中心である「神」は何だろう?と考えています。そこは自分の「神」を見出す必要があるのでしょう。

自由主義保守主義というのは共感できる。単純な左翼、右翼じゃない。

事実の断片で都合の良い物語を作る検察

これ自分の仕事でも意識してもいいね。規則やニュースといった断片的な情報を駆使して物語を作って組織を動かす。リアルポリティクスという感じですが、別にこれは官僚や政治家じゃなくても、サラリーマンでも必要な技術ですよね。

同志社キリスト教

新島襄については、佐藤さんはどう見ているんだろう?去年の『八重の桜』で少し関心を持ち続けている同志社新島襄との関連を見たくなります。
佐藤さんにとっては、キリスト教の影響は大きいようです。獄中で聖書を何度も読み返しています。

 とくに旧約聖書の「何事にも時があり、天の下の出来事にはすべて定められた時がある」(コヘレトの言葉3・1)は座右の銘となった。沈黙と雄弁、戦いと平和のタイミングを間違えてはいけないといつも考えていた。(234)

個人的には、沈黙を学ぶ必要があると考えています。いつもどちらかと言うとしゃべりすぎるきらいがあります。そこに落とし穴がありそうです。

神に対する信仰心から、

絶対に正しいものはある。しかし、人間の側から見る限り、それは複数ある

という寛容主義的な考え方が出てくるのもおもしろいです。自分が信仰する神の考えを人間である自分がすべて理解できる、というのは謙虚さに欠けていると思います。つまり、謙虚であれば他の人間の正義も許容することができるはずです。原理主義者には、この種の寛容さが無く、それは傲慢なんだと思います。佐藤さんに言わせると、そういう傲慢さは勉強不足から来ているんじゃないかと。ネット上に見られる非寛容さも、ただの勉強不足から来ている気がしました。

獄中での読書

ふと佐藤優さんと堀江貴文さんの獄中での読書法を比較するとおもしろい気がしました。堀江さんも読書について書かれていますよね?私は未読です。未読なので勝手に想像して書くと、堀江さんは頭がよいので思考が深まらないところがどうしてもありそうです。唐突ですがあだち充さんの『タッチ』で言えば達也タイプ。すぐ理解しているので次の本に移ってしまう。東京大学っぽい。一方、佐藤さんは東京大学に落ちて同志社大学に進んだ人で、もちろん頭はいいのですが、引っかかって深く思考するタイプじゃないかと。和也タイプ。圧倒的な勉強と思考量で今の佐藤さんがある気がします。
もちろん深く思考することの方がいい、と単純には私も思いません。要するに、堀江さんと佐藤さんの知のタイプの違いなんだろうと思います。それを二人の獄中での読書法を比較することであぶり出すことができるんじゃないか。たとえば他の人もそれを見れば、自分の思考のタイプがわかるんじゃないか。

内在的論理

佐藤さんがよく使う言葉です。まずは相手の内在的論理を把握すること。人に対しても本に対しても。
原発反対派が現実的に力を持たないのは、相手の内在的論理を把握するつもりが無いってこと。自分の正しさだけを声高に主張することで実際に何も変えることができていないわけです。残念。

国家の生存本能

国家には生存本能があると。ヘーゲルの言葉では「理性の狡智」。官僚が国民の利益のためにではなく、国家の利益のために動いているように見えるのも、この生存本能があるせいだと思います。どんな組織も一旦それを作ってしまうと生存本能が働くようになるようです。
私が大学生の時、自分が所属する学科に談話会という教員と学生と卒業生の親睦を目的とした組織がありました。しかし、誰も役員になりたがらない。活動も冊子を年1回発行する程度。そういう状況で、私の同期で役員をしていた女性が、合理的にその組織を潰そうとしました。しかし、いざ潰すとなるとどこからともなく、せっかく続いてきた会なんだから潰すのは惜しい的な反対意見が湧いて出てきて結局、談話会は生き延びたのです。
小林よしのりさんが、薬害エイズの被害者の会?支える会?を解散しろ、って昔、言っていた感覚もそうなのかな、という気がします。しかし、支える会にも生存本能があるんですよね。なかなかそうはならない。

やさしいまなざしをした人の危険性

(略)やさしいまなざしをした人が結果として残虐な政治の支持者となることが多いという逆説だった。(830)

米原万里さんの読書レビューでも次のような記述があります。

その上で「悪は『まともさ』の延長線上にある。だからこそ恐ろしい」(42頁)と鋭い洞察を示す。(1276)

正しい人が、正しさを追求した結果、残虐な結果をもたらすことがある、ということですよね。たとえば、反原発運動の人たちが自分たちの運動が国民の広い支持をなかなか得られずに行き詰まった結果、暴力的なテロリズムに走ってしまうんじゃないか、という危惧が私は個人的にもっています。そういう人たちは「やさしいまなざし」を持っているいい人たちなんですよね、本当に。

佐藤さんは次のように危惧されています。

とくに右派、国家主義陣営がなぜか最近煮詰まっていて、右派本来の寛容の原理を失い、かつての左翼のような状況「内ゲバ」の心理が生まれていることに私は危惧を憶えます。(1763)

これは左派だって似たような状況だと思います。要するにお互い様。原発反対派の人たちの一部に感じるのは、非寛容の原理原発容認派、原発擁護派、原発推進派の内在的論理をとらえようとしない不勉強さです。いかがでしょうか。

いやもうなんだかお腹いっぱいです。私は佐藤さんに比べたらまだまだ勉強が足りません。それでも今手持ちの知識や思考でもって考えて、こうやって書いてブログにすることは意味があると思います。誰かから指摘を受けて、それを考えてなるほどと思えば自分の思考が転回していく。そういうダイナミズムが思考するおもしろさ、と言えると思います。