モノを落として発狂する

今使っているスマホは、Google Pixel 3a だがその前は ZenFone 2 Laser だった。
ある日、朝の通勤時、妻に車で駅まで送ってもらい、車から降りた後、ちょっとした段差につまづいた。
そのはずみで手に持っていたスマホアスファルトに落としてしまった。
画面にひびが入ってしまった。
それがスイッチとなって発狂した。
大声をあげ、そのスマホを自分でアスファルトに投げつけ、さらに何度も踏みつけた。
傍目には気が狂った中年男のように見えただろう。
ラッキーなことに通報されたりはしなかった。
すぐに妻の車に回収され、職場まで車で送ってもらい、その間に何とか心をしずめて、サラリーマンとして働くことができるまでに整えた。
でも、手には傷だらけの無残なスマホが残った。

さらに、よくボールペンを落とす。
その時に限って、ペン先を出したままのことが多い。
そうするとペン先を潰してしまってインクがでなくなる。
インクがまったく出なくなってしまえばいっそのこと諦めもつくが、中途半端にまだ書けたりすると、貧乏性のため捨てるに捨てられず、使い続けることになる。
インクがかすれるたびに心が少しずつ削られていくのがわかる。
気分としてはカブだ。

ポール・オースターの小説に『ムーン・パレス』というのがある。
20歳前後の頃、大好きだった。
何度も読み返した。
大学浪人の頃、心に染みたのではないか。
その中で、主人公が若気の至りで自らを対象とした実験を行っていく中で、最後の食料である生卵を床に落としてしまい、それが引き金になって発狂する描写がある。
それが心底、よくわかる。
モノを落として何かを駄目にしてしまうこと、それがきっかけになって、心が壊れてしまうのだ。
落とすのはスイッチ、引き金といったただのきっかけで、それまでの蓄積が原因なんだと思う。
ただ、モノを落とさなければいいことだ。
それでもニュートンが重力なんか発見したせいで、重さをもったモノは、隙あらば落ちようとする。

僕はもう耐えられなかった。それ自体はささいでも、これは最後の、とどめの一撃だった。あまりの思いに、僕は座り込んで泣き出した。

ちなみにムーン・パレスは、その後、年齢を重ねるにつれて、読めなくなった。
ポール・オースター全体をここ15年くらい、30歳を過ぎてからは読むことができないでいる。
本棚には柴田元幸訳の新潮文庫が何冊も並んでいる。
しかし、今も上記を引用するために開いてみたが、やはり読む気になれなかった。
まあいいや。
柄谷行人を読む気がしなくなったのと似ているのかもしれない。
ポール・オースター柄谷行人は若い時にはまって、その後、若気の至りを直視できなくなり、離れるのかもしれないと思った。

スマホなら、カバーを付けておけばいいんじゃね?」
困ったことに、自分はスマホにカバーをつけたくないのだ。
ほとんどのスマホは、カバーを付けない状態の方が美しい。
手触りもいい。
それをわざわざカバーを付けるのは避けたい。
プロダクトとしての完成度を大切にしたいのだ。
スティーブ・ジョブズも同意見だろう。
ただ、ジョブズiPhoneの傷も容認できたようだが、自分は駄目だ。
傷が少しでもあると、スマホを使うたびにその傷が心を少しずつ削っていく。

今は、最近購入した万年筆キャップレスデシモが気になる。
落とさないようにペンケースに入れて慎重に持ち歩いている。
しかし、それだとせっかくのキャップレスの機動性が失われるのも残念だ。
そのうち、ペンケースから離れて、ポケットに入れて持ち歩きたい。
ガンガン使いたい。
それがモノとしての本質だと思う。
使ってこそ。
しかし、そうすると落としてしまうリスクが高まる。
落としたら、そこはなぜかいつもアスファルトなのだ。
スライムブロックの上に落とせばいいのに。

モノが落ちない世界で僕は心穏やかに過ごしたいと望んでいるのに。