思い出せなくていい~リメンバー・ミー

映画『リメンバー・ミー』は記憶を重視しすぎではないか。
子どもが見ているのを横目でちらっと見た感想だ。
だから、見る気がしない。
そもそも、人はその人を覚えている人がすべて死んだ時に二度目の死を迎える、ということはよく言われるが、この記憶されて語られることに重きを置く世界観には戦っていきたい、というのが今の志向だ。
そして、以下は『リメンバー・ミー』チラ見より先に書いていた下書きだ。

山鳥重『「気づく」とはどういうことか』を読んでいて、たとえ思い出せなくても忘れてはいない、という記述にハッとした。
以下は、著者の意図とは違った誤読かもしれない自分の考えである。
思い出せなくても忘れてはいない、ということは、思い出せなくても経験したことの価値がなくなるわけじゃない、ということだ。
そう思うと、忘れることを恐れて記憶や記録(写真や動画)にこだわる必要が無くなる。
これは開放感がある。
ただ、経験すればいいのだ。
たとえば恋人とのめくるめく経験は、ずっとこの気持ちよさが続けばいいのにと思いながら、しかし、あっという間に快楽は過ぎ去ってしまい、その感覚は残らない。
だからこそ、何度も求めてしまうのだが、そこに焦りが生じたり、色んな問題が生じたりする。
突拍子もない思いつきだが、不倫も一つの現れではないか。
それは記憶に残らないからなのだが、しかし、思い出せなくても経験したことは価値があるのだ。

この点が、そのまま『リメンバー・ミー』批判になる。
もしかしたらピントがずれているかもしれない。
それは、自分が映画をちゃんと見ていないからだ。
しかし、それはどうでもいい。
映画を批判することが目的ではなく、記憶の価値を切り下げることが目的なのだ。
記憶の価値が下がれば、生がより軽く、シリアル・ポップになる。
自由が拡大する。
それを自分は考えている。

そんなことを考えて、新型コロナウイルスの影響で直前まで開催するかどうか決まらなかった子どもの卒業式でのビデオカメラの撮影は止めようと思った。
参加すれば、それでいい。
目に焼き付けるとか、記憶にこだわる必要もない。
その場を経験すること。
それが重要だ。

そして、卒業式のようなイベントではなく、先日、家族でドライブに出かけた時にビデオカメラを持って行った。
そして、海沿いの神社で何気ない場面の家族を動画におさめた。
ワンカット30秒程度で。
その方が、自然でいいのではないか。
あまり見ることは無いかもしれないが。
動画を撮影する際は、保坂和志さんの『プレーンソング』に出てくるゴンタを意識して。

「気づく」とはどういうことか (ちくま新書)

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  • 作者:山鳥 重
  • 発売日: 2018/04/06
  • メディア: 新書
プレーンソング (中公文庫)

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