『ウォークス 歩くことの精神史』を読んだよ

レベッカ・ソルニット『ウォークス 歩くことの精神史』を読んだ。
全体的な印象として、期待より文学的だった。抽象的でわかりにくかったり、著者の経験だったり。もっと有用性のあるもの、使えるものを期待していた面はあった。『GO WILD』とかをイメージしていた。

あまりにもたくさんの人や事例を扱いすぎて、とっちらかっている印象。「歩く」というキーワードで色んなものを集めました。読書メモを見ても、たくさんメモしたが、そこからさて、どうすればいいのやら。しかし、読みながら、色々と自分なりに歩くことについて考えたことは確かだ。触発する本ではある。

たとえば、ちょうどデンマークという国に興味を持続的に持っていたので、キルケゴールコペンハーゲンは気になった。自分なりに調べてみようと思う。そうやって読者なりに広げていけばいい。

ふと、読書と歩くことは似ていると思った。時間の流れに沿って、線的な運動ではある。あちこちさまっよっても、それは一本の線であることには違いない。

日本に目を向けると、明治維新の志士たちは、めちゃくちゃたくさん歩いた人たちではないかと思った。「歩くことの日本史」というアイデアは誰か書いているだろうか。
文学では、夏目漱石草枕』の語り手である画工は歩いて旅をしていた。『三四郎』の登場人物たちもよく歩く。松尾芭蕉などは、本書にも出てきた。
自分を省みても、学生時代、さほど広くないキャンパスをよく歩いた。友人と『外科室』ごっこをやったりしていた。この『外科室』は泉鏡花の原作より、坂東玉三郎の退屈な映画の方。その友人は、自分以上によく歩く人だった。

たとえば、現代のポケモンGO などは、この著者にはどのように解釈されるだろうか。

ゴルフも歩く。安倍首相とトランプ大統領がうまくいっているのも、ゴルフという歩みを共有できたからではないだろうか。歩きながら話すのは、両者の関係を深くするのかもしれない。

次の一文は印象的だった。

憂鬱と疎外感と内省は、少量であれば人生のもっとも精妙な愉楽となりうる。p310

ボードレールを思い起こさせる。しかし、ボードレールへの言及は無かった気がする。ベンヤミンへの言及はあった。

最終的には、読後、自分はやはり歩こうと思った。仕事でも家庭でも、とにかく歩くことを意識してみる。健康のため、などではなく、歩くことそのものを目的としてみる。そこに自ずと思索が付属してくるイメージだ。健康も後から付いてくる程度の期待で。歩くことには、メリットしかない気がする。

ウォークス 歩くことの精神史

ウォークス 歩くことの精神史