自分から逃れるためのレッスン

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photo by chausinho
レッスンと書いたが、うまい方法は無い。
シルバーウィーク、五連休の最終日。朝から心が病んでいる。色々と考えてツイートしてみた。
その中で「どこにいても自分から逃れることができない絶望感」と書いた。それはなるほどと自分で思う。
趣味に没頭できれば、その瞬間は自分から逃れることができる。デモに参加してもいい。没頭する何かがあれば、自分から逃れる時間を作ることができる。それでいくらかでも救われる。
僕にはそういった情熱の対象が無い。妻が心配するのもその点だろう。老後が心配だと言う。妻が話した親戚のおじさんの話が魚の小骨のように引っかかっている。大企業を務め上げ、退職後に田舎に帰ってきたが、友達もいなくて図書館通い、そしてうつ病になってしまったという。もちろん知らない色んな要素があるんだろうけれど。老後に仕事以外の繋がりを持たない男性の精神的な危機は大きいとわかる。
しかし、僕はコミュニティとか社会的繋がりとか、うんざりなのだ。一人でいたい。とはいっても、自宅に篭って鬱々している年老いた旦那を見たくない、という妻の気持ちもわかる。じゃあ、今、僕がサーフィンにはまって週末に一人、宮崎の海に妻と子どもを崖の上に放り出して行くことも困ると妻は言う。それもわかる。
要するに、今はイクメンで休日は子どもたちの世話に献身的になり、歳をとってからは一人で陽気に出かけて欲しい、というのが妻の本音なのだ。そんなにうまくはできない。

さて、ここまで読まれた人は気付いたかもしれない。僕は、妻が何を言ったか、妻が何を考えているか、を気にしている。その性格のために、自宅にいても妻の顔色を伺ってリラックスできない、自宅をホームだと思えない、状態に陥っている。そのため休日に自宅にいてもまったく休んだ気がしない。そして、日曜日や連休最終日には深いブルーに陥るのだ。

永井荷風はどうだろうか。都会に引きこもった荷風。あるいは一人で銀座を初めとして東京を歩き回った。日本のボードレールのようなイメージはある。その書いたものや生き方にヒントがあるかもしれない。無いかもしれない。
今は色々探し求めている。