保坂和志「小説、世界の奏でる音楽」を読んだよ

保坂和志「小説、世界の奏でる音楽」を読んでいるのだが、保坂和志について書いてブログにアップするのはいつも緊張する。
それは、可能性として保坂和志さん本人がこのブログを読むことがあるからで、下手なこと書くと、けっと思われそうで緊張する。
それでも書くんだけどね。
今回、たくさん気になる箇所があるだろうと予測したので、メモをとりながらではなく、気になった箇所があったら付箋をつけていく読み方をしている。

読み終えた。
後半は付箋があまり付かなかった。読むのがつらくなったからだ。つらいといっても、おもしろくないということではなく、読んでいる僕の頭がつながらないだけだろう。

  • 考える=信じること、真に受けること

この本を読むのにレバレッジ・リーディングは明らかに向いていない。僕も付箋の箇所をメモしつつ、それ以上の時間をかけて付箋の周囲を読み返す。

  • ファン・ルルフォ「ペドロ・パラモ」

しかし、「恋する惑星」を初めて観た時、途中から金城武がいなくなってしばらく混乱した。

保坂さんは、自然が描写された文章が好きと書いているが、僕は全く駄目です。「自然が描写された文章」はつい読み飛ばしてしまいます。そんなことでは小説を読んだことにならない、と保坂さんに言われそうですが。

  • 保坂さんの身体
    • 飽きっぽい、同じ姿勢を続けられない

ここは同じだ。NちゃんやKくんの邪魔を受けつつ読書します。一方、妻はソファにじっと座って本を読むことができるようです。
ふと、飽きっぽい僕だからこそ、GTDが「身体」に合っているんじゃないだろうか。

本当か?

  • 数式を肉体的に感じられるか

たとえば、コードを肉体的に感じられないと、プログラムは書けない?
いったい私はいつになったらコードを書くのか?
いつになったら小説を書くのか?

  • 深刻=(心に)深く刻む
    • 深刻ぶったりするような意味は私(=保坂)の「深刻」にはない

この意味での深刻さで、僕は忌野清志郎を深く心に刻むだろうて。

  • 書かれているその時が小説にとっての現在

僕にはそれがフツーの感覚で、小説のストーリーがさっぱり入ってこない。読んでいる頁、読んでいるフレーズそこしかない。

死すべきことに対抗する努力は、恒常的で、一貫し、総体的なものでなければなりません。この抵抗への希望と意志とは、私たちが呼吸する空気のなかにあるにちがいないでしょうし、私たちが暮らし、呼吸する場所のなかに組み込まれていくにちがいないのです。(荒川修作「建築する身体」)

これは保坂さんがよく引用する文章で、それを僕もよく引用している。
吉田健一の言葉を思い出す。

  • 戦争に反対する唯一の手段は、各自の生活を美しくしてそれに執着することである

しかし、これはかっこよすぎる言い方かもしれない。

  • 戦争のこととなるとどうして私たちは似たりよったりのことしかしゃべれないのか。

しゃべらずに、各自の生活を「美しく」すること。そこにしか抵抗はないのだろうか。政治活動は戦争に対して無意味だろうか。あるいは、ソレスタルビーイングの介入行動は、戦争に対しての抵抗なのだろうか。
機動戦士ガンダム00」も吉田健一保坂和志も子育ても、全てを動員して考えるのが私で、「動員」も戦争用語か。

  • 私の考えのほとんどがどこかで読んだり聞いたりした考えだ

それは僕もそう思っている。今は、そう思ったときに、キーワードをGmailで検索かけたりするとその考えのルーツがわかったりする。ブログもそういったデータベースとなるだろう。あるいは、まったく一から練り上げた思考であっても、Googleで検索してみると誰か別の人が同じことを考えていたりしておもしろい。
荒川洋治の詩の一節をみつけた*1

うしろからするのが好き
きみのおしりなら
いくどでも
荒川洋治「さあ」)

僕は物語を書くことができない気がしている。かといってエッセイというわけでもなく、そうなると新しいユニットを作る必要があるかもしれない。ブログが一つの形式としていいなあと思っている。まず、手軽だ。また、読者がいる。フィードバックもある。

  • 瞬きの間の永遠

これは保坂さんが否定しているような言葉だが、僕の中で印象に残っている言葉だ。後から槇原敬之の曲名かどこかでみつけたが、最初にそれを教えてくれた女の子のことを僕は覚えている。

  • 人は何でもかんでも理解してしまう性癖があり、すぐに理解に走ってしまうことで、注意深く耳を傾けなければならないところを黙殺してしまう

結論や断定が早い人、が嫌いだった子どもが文学や音楽やらをやるとして、GTDを使って結論や断定を早くして仕事を乗り切っている僕は文学をできないだろうか。GTDはとりあえずの結論や断定をするのを助けるだけであって、ビジネスマンの結論や断定はとりあえずの結論や断定でしかない。

  • 二十世紀後半以降の小説を含めたすべての表現においてキイになる概念としての「貧しさ」

「貧しさ」は、別の言葉でいえば、シンプル・ライフか。野心の無い今時の若者。「シリアル・ポップ」も「貧しさ」かもしれない。

  • 人はあれもできるこれもできるという可能性の集合体なんかではなくて、「私にはこれしかできない」と気がついたときにようやく何かができるようになる

  • ROVOというバンド
    • 「宇宙っぽいことをやろう」
    • 貧しいのに圧倒的に肯定的

  • ホームパーティのような場所で、女たちは男たちよりもずっと簡単にうちとけることができる

友だちの女の子の家に集まって、男は僕とその部屋の女の子の彼氏だけだったとき、サッカーの話題でしかうちとけることはできなかったな。
まず僕がするのは、1985年トヨタカップでのプラティニの幻のボレーシュート。当時10歳の野球少年だった僕も興奮して、休み時間のサッカーではそのボレーシュートばかりやろうとしていた。

  • ある行為なり出来事が起こるときには、誰か一人が原因なのではなく、その状況にいる全員、風景の全体がそれを引き起こしている

  • 天候と体調は連動している

  • 野球の打者にとって、投手の配球を読むことだけが思考でなく、バットに当ててアウトにならずに一塁まで駆け抜ける行為などの全てが「思考」だ

保坂さんがよく言及する羽生善治をはじめとするプロ棋士たちの「思考」は、盤面や名人戦の休憩時間に羽生が食べる軽食なども含めたもの、、、たとえば僕はザウルスでのEBtの操作やGTDレビューする行為自体が僕の「思考」となっているということだ。

  • ベンヤミンの孤独
    • 書き手が孤独を放棄したときに売り上げがやってくる

ミゲル・デ・ウナムーノだったかのドン・キホーテについての文章を思い出す。それぞれの歩みは孤独であっても、同じ星を見て、同士がどこかにいる、だから各自勝手に星に向かって進め、、とかそんな内容だった気がする。あーうまく言えない。
ブログを書くようになるまでは、僕はウナムーノのエッセイに勇気づけられ、一人で歩いている気でいた。ブログにすると思いがけず反響があった。たとえコメントやトラックバックをくれなくても定期的に僕の文章を読んで何か感じたり、考えたり、去って行ったりする人がいる。その存在をネットの向こう側に感じることができるようになった。1994年には全く想像できなかった世界にいる。

僕も1999年の7の月をわりと本気で信じていた。だから、1999年の8月になって僕は「余生」となり、自由になった。自由になるともてた。もてたといっても、僕にしてはという基準だが。

後半、やっつけ仕事になっているなあ。
Kくんの熱が下がらないことには、頭は回らないと思っている。
Kくんの熱は下がったが、だからといってすぐに頭は回らないようだ。

小説、世界の奏でる音楽

小説、世界の奏でる音楽

*1:原典にはあたっていません