山本弘「アイの物語」を読む

アイの物語

アイの物語

「サタデーウェイティングバー」を聞いて図書館に予約していた山本弘「アイの物語」を読む。

アイはAIのこと、人工知能のこと。
地球は既にAIをもった機械によって支配されている。わずかに生き残ったヒトはコロニーで機械から隠れて生き延びている。

読み終えて、最近にない感慨を覚えた。

以下、ストーリーや結末のネタバレになるようなことを書いたつもりはないが一応。

ヒトの姿をして、ヒトと同じように喋るマシンに、心がないと考えるのは難しい。

ウィトゲンシュタイン永井均を思い出した。心の問題、たとえば他人の心の存在をどう感じるのか。あるいは他人の心を感じたとして、それで他人に心が存在すると言えるのかとか。
たぶん永井均からすれば、私の哲学風議論は徹底されていない。なんというか、ありがちだろう。

「(略)TRBって?」
「つくねライスバーガーの略」
「何だ、そりゃ?」
「パンの代わりにライス、ハンバーグの代わりにつくねを使ってるのに、まだ『バーガー』と主張してる食べ物よ。一次比喩ではなく、二次比喩だけど」

これ、捕らわれたヒトと捕らえたマシンの会話です。笑った。
そのマシンがヒトに語る第5話で、現実世界のヒトと架空世界のヒトがメールでやり取りしている。
さて、そこで考えたのが連載の話。メールだけのやり取りで顔も見ていない、声も聞いていないところで何かが生まれる2008年のおもしろさ。

(略)がそうであったように、僕自身がAIであり、仮想空間の中で疑似体験をしているのではないという保証はどこにある?

私がマシンである。ヒトと思い込んでいる。ということを否定することはできないんじゃなかったか。
話は変わるが、3歳の息子は朝起きると勝手に動き出す。この時点で既に意志をもっているわけだが、それがプログラミングされた……

「アイの物語」はアニメ化すればいいんじゃないか。少女型のマシンは映像化すれば、ある種の層にうけがいいだろうし。

AIが進化すれば、意志をもってヒトに反乱するということをつい考える思考には欠落がおそらくある。というのは、AIがヒトのような意志をもつとは限らない。おそらくヒトと違う属性、たとえば不死のAIは、仮に意志をもったとしても、その意志はヒトとは全く違い、ヒトには想像もつかないものかもしれない。
これ「アイの物語」の第6話の途中までで考えたこと。物語の結末はまだ知らない。

「(略)今ここでこのボディが破壊され、メモリーが失われれば、先週の金曜日に取ったバックアップから、もう一人の私が再生されるでしょう。でも、それはここにいる私ではありません。ここでこうして、あなたと話している私は、一人しかいません」

これは完全に永井均の問題で見たと思った。

 世界に「私」という単語はあふれているが、真の意味での私は一人しかいない。すなわち、ここにいるアイビス、それが私だ。

「私」は私しかいない。あなたの私は「私」ではない。世界は「私」が死んだら消滅する?ということが真かどうかって考えたりする。独我論とかよくわかっていないが、そのあたりのことかもしれない。

フレーム問題 - Wikipedia
これオモロイ。