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鈴木健『なめらかな社会とその敵』を読んだよ〜同世代への嫉妬やNAMの失敗の先へ

book

http://www.flickr.com/photos/58627294@N00/2245673842
photo by ~FreeBirD®~

鈴木健なめらかな社会とその敵』をおもしろく読んでいます。自分が考えていたことが、よりはっきりと思想的根拠も提示されて書かれている、という気がします。本書は希望の書です。実現可能かどうかなんて気にする必要はありません。
下記は、レバレッジメモというより、触発された自分のまとまりの無い考えを並べています。

同世代の思想家、哲学者が本を出版したり、大学教員として職を持っていたりすると嫉妬します。
それは自分の思考の徹底が不十分だということ。他人と比較しても仕方がないとわかってはいるけれど。

責任を追求することで、後付で自由意志を作り出す。つまり、自由意志はフィクション。刑事事件を見てもそう思う。
人は、独自のアルゴリズム(習慣など)で何かをやってしまってから、後から理由を考える。
最近は自分の言動に失望することが多いです。まったく思い通りに動けない。自由意志なんてたぶん存在しない気がします。
自動車を運転中にCDプレーヤーやスマホを操作するアルゴリズムがあったら、即効、書き直すべき。

敵と味方の区別

最近、仕事でもそれを意識しています。こいつは自分にとって「敵」なのか「味方」なのか。同じ組織に所属していて、共通の目標、ミッションに向けて協力して仕事をする、というのは幻想です。だから、敵と味方ははっきり区別できます。
とはいえ、その敵や味方という区別は固定的なものではなく、常に揺らいでいます。昨日の敵が今日の味方となり、逆もあり得ます。というか、悪の仕事術という観点からは、敵をいかに味方に取り込むか、というのが重要です。
こいつは自分と合わない、そういう人を味方にすることができれば仕事が進みます。
仕事上の敵は、イスラム国みたいに徹底的に叩く必要はありません。味方にしてしまえばいいのです。
この辺りの話は、鈴木健さんの本からは離れています。
政治を「敵と味方を区別すること」と定義したのは、カール・シュミットのようです。仕事と政治は似ています。どちらもパワーゲームです。

自己維持的なシステムとしての組織

組織は、自らを維持しようとする本能があるように見えます。学生時代、同級生の学級委員長的な女性がほとんど機能していなかったある組織を潰そうとしました。役員のみに負担が集中していて、組織の目的も失われていたと判断したからです。しかし、いざ潰そうとなると卒業生や教員といった外野から様々な反対意見がでてきました。これには驚きました。普段、まったくコミットメントしていない人々が声を上げたのです!そして、結局、その組織は維持されることになりました。
以来、私は、新しい組織を作ろうとする際には警戒を怠りません。組織というのは、立ち上げるより潰す方が難しいのです。組織や団体に加入することも警戒します。抜けることが難しいからです。
これは旧来の【膜】と【核】で構成された組織でしょう。鈴木健さんはこれを超えるシステムが無いか、という問題意識のようです。しかし、NAMは無残に失敗しましたよね。自分はNAMには大変興奮した口で、参加しようと思ったのですが、生来の無精からぐずぐずしていたらNAM自体が自壊してしまいました。

なめらかな社会

お、「フラット」という言葉がでてきました。自分のフラットというこだわりも、鈴木健さんの思想などをどこかで入手していたのかな?いや、鈴木健さんの議論では、フラットというのは否定的に扱われているようだ。ここでは、同じ言葉を使っていても、その言葉に託された意味が異なることがある、と押さえておこう。

佐々木俊尚さんが『自分でつくるセーフティネット』で書いていたように、Facebookなどによって、現実にはみんながプライバシーをさらけ出す方向に少しずつ進んでいます。これは個人の【膜】がなめらかになっているのでしょう。

兼業禁止

一般的な企業において、社員の兼業は禁止されています。なぜでしょうか?
それは人材が生みだす価値を企業内=【膜】の内側に囲い込むためでしょう。同じ人間が同時に複数の企業に所属できれば何かが変わるかもしれません。
ところで大学教員というのは当たり前のように兼業が認められる存在です。テレビ出演する大学教員がいたり、大学病院の教員は民間病院の「アルバイト」で稼ぐことができます。その意味で、大学=universityというのは、緩やかな、なめらかな組織なんですよね。そういった組織であるために、なかなか学長がトップダウン型のリーダーシップを発揮することは難しくなります。大学のガバナンス改革とか言う文部省や財務省の官僚、経済界のリーダーたちはそこをわかっていない可能性があります。わかっていてプレッシャーをかけている可能性があります。
この辺りは、パワーゲームなんでしょうが、大学教員はパワーゲームに慣れていません。
大学教員は各自、商店街の店主みたいな独立営業している存在なので、学長に権力を委任するということをできないと思います。

伝播投資貨幣PICSY

読んでいて、FacebookTwitterで交換可能な「貨幣」を作ることができないかと思った。
PICSY、おもしろい。たとえば大学教員はそのアイデンティティをほとんど研究者として持っている。教育者と自覚している大学教員は少ない。なぜか?それは研究者として評価されこそすれ、教育者としては評価されないからである。じゃあ、なぜ大学は教育者として評価しないのだろう?それは単に教育を評価できないからだと思われる。
鈴木さんはPICSYの事例で患者を治す医者を挙げていたが、これを大学教員に置き換えると、自分が指導した学生が卒業後に社会的に貢献してその貢献度が教員の評価にフィードバックされる仕組みが必要なんでしょうね。PICSYだとそれが可能?
自分は一読してまだまだ理解できていません。

長くなりそうなので、とりあえずここでブログにしておこうと思います。

なめらかな社会とその敵

なめらかな社会とその敵