千葉雅也『意味がない無意味』を読んだよ〜Twitterそして九鬼周造

千葉雅也さんの『意味がない無意味』を読んだ。
千葉さんは『動きすぎてはいけない』が、もうタイトルでガツンとやられた。
そして、ドゥルーズだ。
自分は、アマチュアなりにフーコードゥルーズデリダと読んでいる。
その中で最も、親和性が高いのがドゥルーズだ。
おもしろい。
デリダはさっぱりわからない。
また、千葉さんのギャル男へのこだわりもさっぱりわからない。
なので、ドゥルーズに触れた部分はわかる。
「生成変化を乱したくなければ、動きすぎてはいけない」という有名な言葉。
そこから、「実に望ましい」のはむしろ「あれこれの論点についてどんな意見も見解も持たない」ことである。
「コミュニケーションの不足」に苦しんでいるのではなく、「意見」の表明を無理強いするような圧力にこそ苦しめられる。
だから、ドゥルーズは「旅行」を好まない。
といった流れになり、この辺は何度も読んだ『記号と事件』なのでよくわかる。
今では、Twitterの使い方などを考える。

Twitterについて

Twitterに関する記述も多い。

 最近のツイッターは空気が厳しい。
 たとえば出勤途中の電車でスケジュールを考えながらついついそのアプリに触れてしまうと、たいがい何かイライラさせられる議論を目にし、自分のやるべきことを始める前に、頭が気がかりの靄で覆われてしまうのである。p203

これを千葉さんが書いたのは2014年らしい。
Twitterの幸福感が無くなって来たのは、2011年の東日本大震災以降かな。
朝の通勤時にはタイムラインは見ない方がいいよね。

しかし僕は、誰もが多少なり警察的になったーーしかも活き活きとーーこの状態を薄気味悪く感じている。」

自戒しないと自分もつい警察的なツイートをしてしまう。
うんざりして後から消すことになる。

ツイッターというのは、生煮えの、変化途上の思索を相互作用させる場所であると僕は思っている。ヴァレリーの『カイエ』や、ニーチェの断章や、あるいはソクラテス以前の哲学断片のような形で、体系化されざる何事かを試運転する。140字という有限性で。

Twitterにおいても、正解志向は強い。
それは大学入試をゴールとする学校教育の成果ではないかと思う。
ツイートにミスが許されない息苦しさ。
自分は積極的に仮説、あるいは回路に浮かんだことをK-2SOのようにそのままツイートしていきたい。

人文社会系の英語論文問題

海外の査読ジャーナルに日本人が(人文社会系の)英語論文を発表しなければならないというプレッシャーは、もうしばらく前から普通になっています。p214

唐突だが、この一文は、最近読んだ豊田長康さんの『科学立国の危機ー失速する日本の研究力』を思い出した。

日本の人文社会系論文が少なく、生産性が極端に低いのは、英語化の問題が大きいと考えられます。
豊田 (No.3299-3300). Kindle

日本の人文社会系の「輸出」も考えないといけないという問題意識が千葉さんにはあるとわかった。
そんなの関係ねぇ、というオールドタイプも未だにいるが、それではねえ。

九鬼周造

そして九鬼周造について。
九鬼は、昔から親和性を感じている。
『「いき」の構造』は何度も読んでいる。
九鬼の『偶然性の問題』は2018現在、青空文庫で入力作業中だった。
寄付しようと思った。

カンタン・メイヤスー『有限性の後で』を読んでみたいと思った。

「邂逅」という言葉は20年以上前から自分にとってキーワードになっている。
邂逅を求めて、無駄にキャンパス内を歩き回っていた日々。

「世界は、異なるあり方をしていてもよかった。」という一文は、可能世界に接続する。
可能世界については、ずっと書いている。
考えている。
可能世界について考えることは自由に接続するのではないか。

「いきであるのは、表面の出来事としての邂逅である。」という一文は、ウォーホルと接続する。
表面へのこだわり、逆に言えば、裏側を読まないこと。
たとえば仕事においても、上司の言葉を忖度せずに、言葉通りを受け取ること。
それが自分を守ることになる。
安倍首相近辺のニュースを見ていると、官僚は忖度しすぎているのではないか、という気がする。
明確な指示でなければ、スルーすればいいのである。
しかし、事務次官の人事を握られているとなれば、そうもいかないのが現状だろうか。
政治そのものより、政治にまつわる組織の力学、といった点には興味がある。
忖度はいきではない。

政治の話になるとつい理に落ちてつまらなくなる。
よって、この辺りで投稿しておこう。

意味がない無意味

意味がない無意味