ニーチェの『この人を見よ』を読む度に、ドイツ的なものへの悪口に笑ってしまう。
試しに抜き出して列挙してみたらおもしろいのではないか、というのがこの記事の趣旨である。
深い意味はない。
ちなみに引用は新潮文庫版からである。
★〜は私のコメント
「──ドイツ精神はもたれた胃の腑から生まれたものなのだ。……ドイツ精神とは一種の消化不良であり、何かをこなし切るという力を持っていない。」p42
★ニーチェは、思索のような頭脳労働も、生理学的に考えている。
「ドイツの風土にかかったら、強健な内臓、英雄的資質を具えた内臓でさえも、無気力にしてしまうのはいとも簡単だ。」p46
「ドイツの息がかかると、文化は駄目になるのだ。」p52
「ドイツ人というのは偉大さというもののいかなる概念をも理解する能力を持たない。」p54
「ドイツ人が近寄って来ただけで消化が悪くなる」p56
「パリの一芸術家の魂の中に生きている途轍もない野心などは、ドイツではまるっきり理解されていない。」p57
「……ドイツの息がかかると、文化は駄目になる。」p58
「ヴァーグナー(ワーグナー)はいっさいのドイツ的なものに対するすぐれて効き目のある対抗毒なのである。」p58
「……音楽とは何かを、ドイツ人が知り得るなどとは、私は決して認めまい。ドイツ人音楽家と呼ばれている人々は、その最大の人々を筆頭に、外国人である。」p60
「ドイツの町の平板に打ち伸ばしたような、いじけた世界」p64
「私が発見されていないのは、ヨーロッパの平板国ドイツにおいてだけである。」p78
「高貴でそしてデリケートな私の著作の世界に足を踏み入れることは、比類ない一つの特典である。──この特典に与るためには、人は絶対にドイツ人であってはならない。」p80
「私の知人たちの中でも頓馬な連中、失礼ながらこれは単なるドイツ人ということなのだが、」p82
「私はドイツ的教養なるものを当時早くも容赦のない軽蔑の目で見下していた。」p102
「(──今日ドイツ人は国語浄化主義者になり澄まし、まともな文章ひとつ書けなくなっているが──)」p106
「──この間にヴァーグナーがドイツ語に翻訳されてしまったのだ!」p113
「精神的な事柄においてますます怠惰になり、ますます本能不足になり、ますます正直になっていくドイツ国民」p165
「──私が問題にするのは、歴史的な事柄におけるドイツ人の淫らなまでのだらしなさである。」p166
「彼らドイツ人は過去四世紀のあらゆる大きな文化的犯罪に後ろめたさを覚えなければならないのである!」p167
「……ドイツはルネッサンスの時代という最後の偉大な時代の収穫と意味とを、ヨーロッパから奪い取ってしまった民族である。」p168
「ドイツ人が世に送り出してきたのは、いつも「無意識の」贋金つくりばかりだった。」p170
「「ドイツ精神」とは私にとっては悪い空気なのだ。というのは、ドイツ人のどの言葉にもどの表情にもつい洩れ出てしまう心理的な事柄におけるあの不純さ、本能と化したあの不純さのそば近くにいると、私は呼吸困難になるからである。彼らはフランス人のように厳しい自己吟味の十七世紀といった時代を一度も通過していない。」p171
「ドイツ人と附き合うのは、女と附き合うのとほとんど同じで、決して底には行き着かない。ドイツ人には底などないのだ。」p171
★女性蔑視的な表現あり
「──ドイツ人というのは私にとってはどうにも我慢のならない存在なのである。もしも私が自分の本能のすべてに逆らうような種類の人間を思い浮かべてみると、それはいつも決まってドイツ人になる。」p172
「……私は二、三の芸術家、とりわけリヒャルト・ヴァーグナーとの附き合いを別にして考えれば、ドイツ人と共に気持ちのいい時間を過ごした覚えがない。」p173
「……私はドイツ人という種族に耐え難い思いがしているのだ。ドイツ人と席を共にして面白いと思う人はまずいないだろう。彼らはニュアンスを感じ取る指を持たない。」p173
「──彼らは足にエスプリを具えていないので、歩くことさえままならない。──つまるところ、ドイツ人には足なんてないのだ。彼らにあるのは臑だけだ。」p173
「……ドイツ人は自分がどんなに卑俗であるかがまったく分かっていない。卑属の最たることといえば──彼らは自分がドイツ人にすぎないことを恥ずかしいとさえ感じないことである。」p173
すべて抜き出せたかどうか。
それにしても、ニーチェはドイツ人やドイツ的なものが大嫌いだったようだ。
- 作者: ニーチェ,西尾幹二
- 出版社/メーカー: 新潮社
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