「私」を薄めてみる

10月10日に全ての出来事は「私」の外部で起こっている、ということを書いてみた。
次は「私」を薄めることを考える。「私」があるから不安とか苦しみがあって、じゃあ「私」を無くせばいい。ところが、「私」を消す、というのは強すぎて、アンチ巨人と同じようにそれでは巨人、じゃなくて「私」は消せない。薄めるぐらいの感じがいいんじゃないか。
出来事の束、接点としての「私」。フローとして仮の姿としての存在。存在というはっきりしたものじゃなくて流れ。川は構成する水は決して同じではないが川として存在するような流れ。
そうなれば息子が小児科で点滴している1時間以上の時間も退屈ではない何かとして立ち現れる。