捨てる。

 今、「捨てる」ことにハマっている。
 発作的に家族総出で引っ越しを挙行することになり、余は、自分の荷物を減らすべく、日々、苦闘している。最大の難物は、おそらく本やプリント、ノートといった紙類であろう。余は、とりあえずとっておく、という貧乏性的考え方を保有しているらしく、どうしてこんなもんが、というものが多々ある。たとえば、大学入試センター試験の受験票。うーん、顔が暗い、そりゃそうか、二浪だもんな、いいや、これは、捨てる。捨ててもた。
 とまあ、かなりの量の、紙類を捨てていると、たとえば、考えを捨てる、なんてことも考えたりする。つまり、こだわりやら、思想やら、言葉やら、を捨ててしまい、思考をシンプルにするのだ。ふむ。どうも余は、脳内にも、どうしてこんなもんが、といった観念や言葉をため込んでいるようで、そいつらが、ときどき、腐臭をはなって、臭い。捨ててまえ、と思う。ところが、問題は、紙類は紐で縛って毎週水曜日、雨の降らない朝に所定の場所に置いてしまえば、それで捨ててしまえるが、観念や言葉の「生ゴミ」は、どう捨てたらよいのかわからん、ということだ。
 幾つか、考えはある。一つ、働く、こと。二つ、レンアイする、こと。三つ、踊る、こと。だ。
 まず、働く。これは、やっている。やってはいるが、しかし、今やっているバイトは、それほどハードな仕事でもないので、結構、仕事中でも、考えてしまう。つまり、観念や言葉を捨て去ることができないのだ。やくせん。
 次に、レンアイ。これは、やっていない。っていうか、やろうと思ってできるもんじゃないやろ、というのが正論だ。しかし、あえて、やったろ、と思って、じゃあ、どうする、と考えると、これが、いろいろとメンドウなんださ。やれん。
 結局、イチバン、安易なのは、踊ることなんだ。金も、他人も、いらない。だから、たとえば、フィッシュマンズの音で、踊ってみる。もとより、型などない。貧乏揺すりに、根が生えたようなものだ。うん、なかなか、いい感じになってきた。
 というわけで、余は、縛られた紙類に囲まれ、三畳の空間で、踊っている。日常茶飯事。