いまもとめられているのは、言うべきことが何もないという喜び、そして何も言わずにすませる権利です。これこそ、少しは述べるに値する、稀な、あるいは希少なものが形成されるための条件なのですから。私たちを疲弊させているのは伝達の妨害ではなく、なんの興味もよばない文なのです。ところが、いわゆる意味というものは、文がよびさます興味のことにほかならない。それ以外に意味の定義はありえないし、この定義自体、文の新しさと一体化している。何時間もつづけて人の話を聞いてみても、まったく興味がもてない……。だからこそ議論をすることが困難になるわけだし、またけっして議論などしてはならないことにもなるのです。まさか相手に面と向かって「きみの話は面白くもなんともない」とは言えませんからね。「それは間違っている」と言うのなら許されるでしょう。しかし人の話はけっして間違っていないのです。間違ってはいるのではなくて、愚劣であるか、なんの重要性ももたないだけなのです。重要性がないのはさんざん言い古されたものだからにほかならない。(『記号と事件』)
人の話に興味がもてないのは、その人のせいか、あるいは聞いている私に問題があるのか。大学の講義。日割りで千円をかるく超える学費をはらうだけの価値が大学にあるのか、という根本的な疑念がわいてくる。
なにも言いたくない、どこへも行きたくない。では、僕が書いているのは何?正確には打っているのは何?
おぼしきこといはぬは、げに腹ふくるる心地しける。かかればこそ、昔の人はものいはまほしくなれば、穴を堀りては言ひ入れはべりけめとおぼえはべり……王様の耳は野ウサギの耳!とでもいうために、僕は穴を掘る。できうる限り深く。ジャック・マイヨールはイルカとなって海のなかへもぐってゆく。grand blueの海のなかへ……
メルヴィルがこう述べています。「論証の都合上、ある人間が狂人だとされるならば、私は賢明であるよりも狂人でありたいと思う……。私は水に潜る人たちが好きだ。水面下すれすれを泳ぐくらいのことなら雑魚にもできるが、五マイル、あるいはそれ以上の深さに潜るともなれば巨大な鯨でなければ駄目だ……。思考に潜る者とは世界開闢以来の知恵で目を充血させて水面にもどってきた人たちのことである。」過激な肉体の運動には危険がつきものだということは誰もが認めるでしょうが、思考もまた、息が詰まるほど過激な運動であることに変わりはないのです。思考がはじまると、生と死が、そして理性と狂気がせめぎあう線との対決が不可避となり、この線が思考する者を引きずっていくのです。思考するためにはそうした危うい線の上に腰を据えるしかないとはいえ、思考するものはかならずしも敗北するわけではないし、かならずしも狂気や死を運命づけられているわけでもない。(『記号と事件』)