エロいことだけ考えて生きていきたい

「エロいことだけ考えて生きていきたい」と深夜四時、もう朝に近い時間にセックスしたいけれどできないもやもやを抱えて寝不足必至の頭で考えた。とはいえ、毎日たくさんセックスできればそれでいいか、というとエロは奥深い。そう単純ではない。毎日ともなるとパートナーも大変だろう。そもそも僕の体力がもたない。まずは自分の体を鍛えて体力を増強しないといけない。そうすることで魅力的な肉体にも繋がる。相手も複数必要だろう。浮気?それはできない。家庭崩壊は嫌だ。現代日本の制度とモラルでは、シンプルな性欲の発露はそうそうできるものではない。
いや待て、僕は最初「エロいことだけ考えて」と書いた。そう、実践しなくても考えればいいのだ。想像の翼を働かせるといいわけだ(花子とアン)。想像の翼を働かせないと、セックスは結局やることが単純すぎる。入れて出す、そこまでの過程。そういうこと。そこのバリエーション。場面、関係性、衣服、言葉。しかし、同じ行為をひたすら繰り返す、というのも好き。それはそれでエロい。重要なのは想像力。
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photo by Wolf Gang


先日、地元の美術館に松方コレクションを観に行った。最優先事項はエレンの救出、、、ではなく、ムンクのマドンナを見ること。大原美術館所蔵のマドンナ。愛と死。不安。そういうコメントがあったが、僕はこの画を見ると「安心」する。ポーティスヘッドを聴きながら眠るような感覚。そして、エロい。脳内カメラに焼き付けるように長い時間かけてマドンナを見た。見ることは、エロい。視線のエロ。
たとえば街ですれ違う美人を見る。彼女とは二度と会わないだろう。しかし、そうした女性とのアバンチュールを詩にしたのがボードレールだった。悪の華BUCK-TICKではない。街に出れば、そうした女性はたくさんいる。多方面へのエロの発露は街で女性を眺めるといったスタイルがある。これなら、モラル的にも問題は無さそう。あるの?同じコレクションに、マルグリットの夢があった。この女性の裸体画、おっぱいの形が完璧でエロかった。マドンナの次にじっと見たと思う。

先日、妻が女性は100%好きかそうでないか、だけど男性はそうではない、浮気相手が100で妻が50好きとかできるでしょ?みたいなことを言っていて、なるほどと思ったのは、録画した「夜だけどあさイチ」を見ている時だった。妻は夫を一旦嫌いになると0になるのだろう。うーん、夫婦ってなるとどうしてもエロから離れるよね。だから、妻や夫といった言葉で関係を語らないこともポイントになる。
あと、死ぬまでにルノワールのアンリオ夫人を見たい(↑画像)。ルノワールの描く女性はふくよかな女性が多いのかな?現代的ではないけれど、僕はそういう女性も好き。細くてスタイルのいいモデルさんというのは、エロとは少しずれてくるよね、美しいけれど。アンリオ夫人はしかし、ルノワールっぽくない。おっぱいは大きそうにも見えるけれど、よくわからない。美人。西洋画の名画の中で本当に好きな女性ってアンリオ夫人くらいしかいない。けれども、現実には街をあるけば複数の女性に瞬間的に恋してしまう。実在する女性って、無名でもどんな名画より素晴らしい。そこに肉体を持って存在するという圧倒的な価値?

先日、実家で私物を整理した。学生時代を中心に書いた大量の日記があった。とりあえず残した。読み返すと若い頃の痛い感情が書いてあった。初心忘れるべからず。今振り返ると、もっとエロいことを具体的に書いておけばよかったなと。たとえば、キスをして、いわゆる挿入からの射精に至るまで四ヶ月ほどもかかっている。その間、挿入に至らない数々の行為は、振り返るとかえってエロかった気がします。その行為をもっと具体的に「乾いた視線」で記録しておけばおもしろかったなと。様々な条件が重なってそうなったのだけれど、普通はキスすればそのまま挿入するまでいきたくなるもので奇跡的な四ヶ月だったかもしれません。