ルネ・デカルト「方法叙説」を読んだよ〜GTD、機動戦士ガンダム00

ルネ・デカルト「方法叙説」を読んだ。不況の2009年は投資の年ということが言われているので、古典を読もうと思った。古典は古典だが、薄いのがいい。
今回はレバレッジメモではなく、付箋(ポストイットフラッグ透明見出し)を貼りながら読んだ。後から読み返して考えるためである。
冒頭の付箋には、

デカルトガンダム00

と書いた。「機動戦士ガンダム00」とデカルトの話がいろいろリンクする気がしたからである。デカルトを頭ん片隅においてまたダブルオーを見よう。

最初の付箋。

 しかし、ひとりでしかも暗闇のなかを歩いて行く人のように、ゆっくり行こう、そしてどんなことにも用心ぶかく気を配ろうと心に決めました。ほんのわずかしか進まないにしても、気をつけて、せめて転ばないぐらいにゆっくりです。(29頁)

上記引用はパソコンのキーボードでGmail下書きに打ち込みましたが、その転記する行為がさらにデカルトの思考をなぞるようでいいかもしれません。手書きの方がもっといい?いや、私はキーボードで打ち込むのも悪くないと思っています。自分の思考の速度から言えば、キーボードの方が手書きより合っている気がします。
しかし、もっと「ゆったりとした所作」を身につけたいと思ってもいます。キーボードで一応、ブラインドタッチはできるんですが、変換確定のミスが多いですね。

四つの準則

  1. どんなことでも、ほんものだとはっきり認識しないうちは、けっしてほんものとして受け取らないこと
  2. どんな難しい問題を調べるにしても、その問題を一つ一つ、できるだけたくさんの、しかも問題をいっそうよく解くために必要とされるだけの、小さな部分に区切ること
  3. 私の考えを順を追って導いていくこと
  4. どこででも一つ残らず数え上げ、満遍なく見直しをしたうえで、何も手落ちがないと安心できるようにすること

2番目の準則は、GTDの「プロジェクト」と「次の物理的なアクション」の関係と同じですね。
3番目はシングルタスクの考え方に通じる気がします。
4番目にいたってはin-boxに全て収集してストレスフリーになろう、というGTDの考えそのもののように思えます。

四つの格率

  1. 私の国の法律と慣習に従うこと
  2. 自分の行動にあたってできるだけしっかりして、決断ずみであるようにすること、そして意見がどんなに疑わしいものでも、いったんそれに決めたときには、一貫して変わらずにそれに付き従うということ
  3. 運命に打ち勝つよりはむしろ自分に打ち勝つように、そして世間の秩序よりも自分の欲望を変えるようにいつもつとめること、そして一般に、私たちの力でまるまる扱えるようなものは、私たちの考え以外には何もないと信じるように自分を慣らすこと
  4. この世で人々がたすざわっているさまざまな仕事に対して見直しをして、どれがいちばんいいか、つとめて選び出そうとすること

思考を徹底化するうえで、生活を律することは重要な点になってきます。自分が所属する国の法律や慣習に反すれば、批判は免れず、余計な対応に追われ、思考どころではなくなってしまうでしょう。

  • 我思うゆえに我在り

 しかし、すぐあとで、気をつけてみると、何でもにせものだと私がそんなふうに考えたがっているあいだにも、どうしても、私、つまりそう考えているものは、何かでなければならない、ということです。そして気がついてみると、この「私は考えている、だから私は有る」という真理はいかにもしっかりしていて、いかにも保証されているので、いくら<懐疑論者たち>がおよそ常軌を逸した想定を持ち出してきても、この真理をゆさぶる力はどれにもないから、私は次のように判断しました。この真理を<哲学>の第一原理、それを私は探していたのですが、その第一原理として、何のためらいもなく、受け入れることができる、と。(52頁)

出た。デカルトの有名な原理ですね。このすぐ後に私は、

という付箋をつけたのでした。

 私はそこから知ったのです、私は一つの実体であり、その本質または本性はただ考えることだけであり、そしてその実体は、有るためには、何の場所も要らないし、何の物質的なものにも依存しない、と。こうして、この<私>は、言い換えれば、<魂>は、魂によって私は私がいまあるところのものであるのだが、それは体とはまるきり別なものであり、しかも体よりも楽に認識でき、また体が無かったとしても、魂はそっくりいまあるままのものであることに変わりはないだろう、と。(53頁)

ここで私は、ヴェーダそのものとなったティエリアの<魂>のことを思ったのです。しかし、ティエリアは、ヴェーダという物質に依存しているだろうと。あるいは、リボンズ・アルマークの<魂>は、リジェネ・レジェッタの<魂>はどうなったのかとか、ヴェーダの意識は<一人>の<魂>しか入らないのだろうかとか、意識の一貫性は何によって保証されるのかとか、色々考えたわけですが、結論はでません。2010年公開予定の劇場版「機動戦士ガンダム00」ではどうなっているでしょうか。

 その人たちは、どんな動物の体にも骨、筋肉、神経、動脈、静脈、またそのほかのあらゆる部分が無数にあるのに、それと比べたらほんのわずかな部品しか使わずに、人間の才知がいろいろな「オートマット」つまり動く機械をどれほどたくさん作ることができるかを知っていて、この人体を一つの機械、神の手によって作られ、人間に発明できるどんな機械と比べても、比較にならないほど整然と組み立てられ、いっそう驚くべき運動を自分のなかにそなえている機械として見るでしょう。(82頁)

ああ、オートマトンのことだなと思いました。ためしに「デカルト オートマトン」でGoogle検索してみるといろいろヒットした。
デカルト的な考えによれば人間の身体は機械である: 極東ブログ
しかし、「機動戦士ガンダム00」のオートマトンは、まったく自律的じゃなかったよな。

引用が多くなりましたが、読了した今でもいろいろ考えています。そういう意味ですごい哲学者だと思いますよ、デカルト。読んだ人がいろいろ考えたくなる本を書くのも優れた哲学者の条件のような気がしました。
薄くておすすめです。
半年後でも1年後でもGoogleカレンダーなんかでリマインダーをセットして再読してみようかと思っています。

方法叙説 (白水Uブックス)

方法叙説 (白水Uブックス)