ドゥルーズ読み5

 僕はあまり動きたくない性分だ。それは、たんに出無精だからでもあるが、動かずとも常に運動をしているので、その運動にエネルギーを奪われ、動けないからともいえる。絶え間ない思考の運動。意識の覚醒の連続。戦場では常に意識を覚醒させておかないといけない。背後から心臓を弾丸に貫かれないように。無意識に自分の命をあずけるわけにはいかない。「速くあれ!たとえその場を動かぬときでも」というドゥルーズガタリのことばは、座右の銘のひとつなのだ。

 生成変化を乱したくなければ、動きすぎないようにこころがけなければならないのです。トインビーの一文に感銘を受けたことがあります。「放浪の民とは、動かない人たちのことである。旅立つことを拒むからこそ、彼らは放浪の民になるのだ」というのがそれです。(『記号と事件』)

 だれもがみんな旅をしたがる。しかし、その旅はおなじ場所、住み慣れたところへ帰ってくる旅だ。たくさんの写真とおみやげ。数年後の「はるか、ノスタルジィ」。

 難問を切り抜けるには、動きすぎない、しゃべりすぎない、ということが必要なのではないか。つまり、誤った運動を避け、記憶が消えてしまった場所にじっとしているべきなのではないのか。(『記号と事件』)

 僕の意識の内戦、その戦況をみきわめるためには、塹壕に、あるいはジャングルに隠れてじっとしていないと……そして、敵を不意撃ちするために待つのだ。ゴドーを。繰り返す、敵は太陽と金だ。Money is my enemy.

 おれは座席に深く腰をすえて、無理に考えようとしないで自然に頭を回転させるようにした。頭はあまりに激しくこづきまわすと、充電し過ぎた配電盤のようにこわれたりして、いうことをきかなくなる……それに、おれには誤りをおかす余裕はない。アメリカ人は自分が手を出すのをやめて、勝手にどうにでもなるように物事をほっとくのが非常にきらいだ。彼らは自分で自分の胃の中に飛びこんで食物を消化し、糞をシャベルでほじくり出したがる。
 たいていの問題は、ゆったりと楽にかまえて解答を待つようにすれば、自分の頭がひとりでに答えてくれるものだ。例の考える機械のように、問題をほうりこんで、ふところ手をして待っていればいい……(『裸のランチ』)