山に囲まれた渚にて

先日、田舎で8時間ほど空き時間があった。
Kindle Paperwhiteでネヴィル・シュート『渚にて』を読んだ。
周囲を山に囲まれて、近くのコンビニに行くにも車で10分ほどかかる場所で読むのにふさわしい小説だった。
まだ読了はしていない。
少しずつ読み進めている。

「世界の終わり」というよりは、「世界の閉じ方」を見ているようだった。
いかにして世界を終了させるか。
科学者オズボーンの言葉を借りれば、たとえ世界の終わりがわかってるとしても、その終わりを準備すること自体に楽しみがあるってこと。

1999年7の月の前、自分は、フィッシュマンズベル・アンド・セバスチャンを聴きながら、世界の終わりを待っていた。
その時の心穏やかな感覚はもう忘れてしまった。
そして、あっさり1999年7月は何事もなく過ぎてしまった。
そこからまた歴史が始まった感じがある。
歴史が始まると欲が出てくる。
それで失敗したのか、誰かを傷つけたのか。
よくわからない。
記憶はぼんやりしている。

美しい女性モイラは明らかにアルコール中毒だろうが、吉澤ひとみさんや山口達也さんを思い出して、やっぱりアルコールは危ないと思う。
亡くなった勝谷誠彦さんもアルコールのせいだ。
しかし、真綿で首を絞められているような平穏な世界で正気を保つのも大変なのかもしれない。
酔っていないとやってられないのだ。

最初はソ連と中国の戦争だったのが、誤ってアメリカがソ連核兵器で報復攻撃したために世界の北半分は滅亡した。
そして、南半分もやがて滅亡するだろう。
それって、ブラック・スワンだなと思った。
誰も予測できなかった。
世界核戦争というのは、最大級のブラック・スワンになる。
渚にて』と『ブラック・スワン』も接続した。

そして、オズボーンが言うように「世界の終わり」ではない。
ただ、人類が終わるだけだ。
確かにそうだ。
人類が滅亡しても、地球は回り続けるだろう。
一部の生物は生き残り、放射能に適応した種が新しい地球の主となるのだろう。
その世界は今より静かかもしれないが、今の月や火星に比べるとにぎやかだ。
それで十分ではないか。
地球にとっては、人類など滅亡した方がよいのだ。
その地球のイメージは私の中で良いものとして生きている。

これ『渚にて』は読み方に注意しないと自分のメンタルに変調をきたすなと思った。
危険な小説だ。
派手なことが何も怒らない。
そこが怖い。
一種のホラー小説にもなっている。
じりじり心を削られるようなサイエンスフィクションになっている。
思った通りの名作だ。
グレゴリー・ペック?の映画も見てみたい。
精神的に余裕がある時がいいかもしれないな。

人類が滅亡しそうでも、親は子どもに結婚してもらいたいと思う。
庭を家庭菜園にしようと夫婦で話し合う。
それは頭がおかしくなっているわけではない。
自分は正気を保っていられるだろうか?

渚にて 人類最後の日 (創元SF文庫)

渚にて 人類最後の日 (創元SF文庫)