準備それ自体が快楽になれば最強かもしれない

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仕事でも遊びでも、徹底的な準備が楽しいという境地に達したら最強ではないか。

たとえば、コンドームを始め、色んな準備がある。
ポイントは念入りに準備したからといって、することに執着し過ぎないこと。
男性に比べて、女性の場合、むらがある。どうしてもそういう気分になれない時もあるらしい。そんな時に「こんなにも準備したのに」と無理にしてもそれはよくないだろう。そもそも相手がいない、ということもあるだろう。
徹底的に準備したのにできなくても「まあいいか」という軽い境地がよい。そのためには準備すること自体が楽しければいいのではないかと思った。
言い換えれば、準備にはこだわるけれど、結果にはこだわらない姿勢と言える。
少しずれるが、思うにたとえ相手がいなくても準備はした方がいいと思う。緊張感の問題。

仕事では会議の準備。徹底的に準備した手持ち資料はそのほとんどが使われることがない。それでもその準備には意味があると思う。ナポレオンは類のない厳密さでアクションプランを作ったらしい。もちろん戦争はアクションプラン通りには進まなかった。徹底した準備があるからこそ、現場で臨機応変に戦える。

ジャズの即興も同じだろう。プレーヤーは様々なフレーズを準備している。だからこそ、他のプレーヤーの即興に応えることができる。まったく準備していなければ、即興にも対応できないのである。

変化を味方につけるためにも準備が必要なのだ。
準備にこだわらないオープンマインドで即興を奏でる。自分の準備にこだわりすぎて、変化できないのもよくない。準備は潔く放棄することも想定しておく。結果はどうなるかわからない。

大げさに言えば、生そのものが死への準備作業のようなものかもしれない。しかし、死は生の外部にあるから準備は手探りでやるしかない。また、結果もわからない。そのため準備は実験となる。生はそれ自体が実験なのだ。

最近、家のことを色々調べているが、家を買ったり建てたりする予定は無い。調べて具体的に住む家をイメージすること自体が準備作業である。フリードの後継車種を調べることも、GALAXY Note2の後継スマホを検討するのも同じこと。
保険や投資、老後の生活について勉強することも準備である。

そう、勉強も準備なのだ。そして、勉強それ自体が快楽となった浪人生活2年目の自分は最強だった。その契機となった代々木ゼミナールの先生たちには感謝している。本当は高校時代にそういった出会いがあれば良かったが、それはまあ仕方ない。
センター試験の全国模試ではトップクラスの点数を叩きだした。しかし、勉強自体がおもしろくなっていた僕に、そんな結果はどうでも良かった。結果、センター試験では自己最高点数を取り、センター試験のみで受験できる地元の公立大学に楽々合格することができた。
国立大学ではなかったが、その大学で僕はある女性と出会って恋愛して色々あって結婚した。そういった結果は、その結果を予想できずにもがいていた準備によってもたらされたものだと思う。

目標は要らない。方向性、ベクトルさえあれば準備はできる。
具体的な目標があるわけじゃないから、諦めることもない。淡々とフラットに準備をしていく。その境地に達したら最強だと思う。

この文章を書いている時に読んだ須賀敦子さん『遠い朝の本たち』に、サンテグジュペリの言葉が引用されていた。

大切なのは、どこかを指して行くことなので、到着することではないのだ、というのも、死、以外に到着というものはあり得ないのだから」