堀江敏幸『余りの風』を読んだよ〜恋愛の記憶が曖昧な件

堀江敏幸さんの本は、気が向いたら手にとっているので以前読んだ本かもしれない。はっきり覚えているのは自分が所有しているデビュー作のみで、しかし、タイトルは忘れている。
いわゆるフランス系の出自を持つ作家なんだけど、固有名詞をひけらかさないせいか、あるいはひけらかした固有名詞を私が知らないせいか、さほどディレッタントには感じない。その文章を少し読んだだけで、触発されてこういう文章がスラスラ書ける。そういう効用がある。

 彼にとっては忘れがたい事件なのだが、仲間のなかにはそれを記憶していないものもいて、平野の記憶もぐらつき、曖昧になる。(8頁)

  • false memory 偽りの記憶

誰かとキスしたり、セックスした記憶は実に曖昧だ。誰かとしていないことははっきり覚えている。やっている時に出る何かの脳内物質のせいで記憶がはっきりしないのかもしれない。
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 だからこれは、すぐに動き出せという純粋な励ましであるよりも、好きなことが見つかるまでの「遠回り」の大切さを説いておられるのだろうと私は受け取ることにした。(10頁)

冒頭のデビュー作は『郊外へ』でした。新書サイズの小説というのが素晴らしい。文庫本じゃないのがなぜか素晴らしく思える。この文章を書いているMacBook Air内で「堀江」を検索したら、テキストが出てきたタイトルがわかった。メモすることの素晴らしさ?そういうものではなくて、一緒に堀江貴文さんや冒険家の名前なども出てきて思考が拡散するのがわかります。「遠回り」じゃなくて拡散、「散らばり」。集中力やシングルタスクが重視されるように「遠回り」においても一本道でなければならないのだろうか。いや、ここでの「遠回り」はあらゆる方向に「散らばる」ことも含む広い概念であろう。しかし、誰かとキスしたりセックスすることが「散らばる」のはいささかまずいのではないだろうか。これは道徳的な異議申立てというより、医学的な問題だと思います。性病など。

 待つことは消極的な姿勢ではない。数多くの選択肢から引き出したひとつの決意であって、なりゆき任せからはずいぶんと遠いものである。(199頁)

 そう、ためらえばいい。待てばいいのだ。つぎの「島」が見えてくるまで、じっと待てばいい。待つことは「現在」にしか許されていない豊かで過酷な選択を強いる精神の営為であり、矛盾を抱えてまま生きていける舞台なのだから。(203頁)

記憶が曖昧だったり、遠回りしたり、ひたすら待ったり、それは「停滞」と言えるのかもしれない。停滞は許されない時代であり、デフレは脱却する必要がある。たとえば恋愛、キス、セックスにおいても遠回りしたり、待ったりすることがエロを高めることがある。男性的な性急な性欲に突き動かされた行為はまあつまらない。しかも、堀江敏幸さんの本書にはそんなことは一切書かれていない。
若い時の男子が性急なのは仕方ない。それでも遠回りすること、告白しても振られることもなく半年の「宙吊り」に身もだえること。「宙吊り」の後のキスは素晴らしいですよ、本当に。

余りの風

余りの風