幸田露伴「五重塔」の時代設定について鍋焼きうどん問題が沼〜五重塔④

幸田露伴五重塔』を読む4回目。
前回は、其十三の鍋焼きうどんで止まってしまった。
まだ、章の途中だが、鍋焼きうどんの呼び声が意外と大きな問題のような気がしてきた。
インターネットで検索すると、色んな人が鍋焼きうどんは、まず江戸末期に大阪で流行し、明治になってから東京に入ってきて流行したと書いている。
ということは『五重塔』は明治期の東京の話になってしまうのだ。
さて、インターネットで鍋焼きうどんの発祥について書いている人は、いずれも同じような情報を書いているので、誰かの書いた情報を転記して使っている可能性が高い。
そうなると重要なのは一次情報だ。
まず、鍋焼きうどんが芝居の台詞に出てくるという「粋菩提禅悟野晒(すいぼたいさとりののざらし)」、これがなかなか手に入りにくそうだ。
そもそも脚本とか出版されているのか?
国立国会図書館とか、そういうレベルなのか?
引き続き調べてみる。
そして、明治になってから東京に入ってきたという情報の根拠がまだよくわかっていない。
そこを確認して、その根拠となった一次情報を確認したい。
いや、そうではなくて、露伴は江戸に時代設定したが、其十三では、つい当時明治20年代の風俗としての鍋焼きうどんの呼び声を入れてしまったのではないか、という仮説も立てられる。
そもそも『五重塔』の時代設定なんて論点があるのだろうか。
みんな意外と無邪気に江戸時代だよねって思っていないか。
モデルとなった谷中感応寺の五重塔については、下記リンク先に記載があった。
crd.ndl.go.jp
レファレンス協同データベースということで、一定の信頼性があるだろうと思われる。

この五重塔は、明和9年(1771年)に目黒行人坂の火事で焼失しましたが、天明8年に再建が始まり、寛政3年(1791年)に近江国高島郡の棟梁、八田清兵衛ら48人によって再建され、幸田露伴五重塔』のモデルとなりました。

これからすると『五重塔』を読んだ明治以降の読者は、自然と寛政年間、つまり江戸時代の話だと想像して読んだのだろう。
しかし、その当時、江戸に鍋焼きうどんはなかったようなのだ。
先にも書いたが、露伴の単純ミスでいいのかもしれない。
あるいは、みんなが書いている鍋焼きうどんの発祥が間違っていて、寛政年間の江戸にも屋台があったのかもしれない。
この辺りの深掘りは、九州の南に住んでいるフルタイムのサラリーマンには限界がある。
とりあえず書いてブログにしておこう。
嗚呼、学生時代にこうやって時間をかけて深く調べるおもしろさを知っていれば良かったのに。
時間はたくさんあったのに。
図書館も利用しやすかったのに。
今は、インターネットがあるから、なんとかこの程度までは安楽椅子探偵でも調べることが可能だ。
それはそれで良い時代なのだが、限界がある。
足と時間とちょっとしたお金を使って調べるには、学生がベストの時期なのだ。
大学生なのにアルバイトするなんてもったいない。
大学生なのにサークル活動ばかりなんて、もったいない。
大学生なら、深く勉強することを心からおすすめしたい。

五重塔 (岩波文庫)

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