佐藤優『国家と神とマルクス』を再読したよ〜もっと勉強しようと思う本

http://www.flickr.com/photos/12426416@N00/104968057
photo by Dunechaser

年が改まったので、佐藤優さんの本を再読してみました。(↓過去記事)

佐藤優『国家と神とマルクス』を読んで、自分の「神」は何だろう? - シリアルポップな日々:serialpop days
タイトルからわかるように幅が広い本です。右から左までの幅の広さはなかなか他に類を見ません。
佐藤さんは自らを「自由主義保守主義」と規定されているようです。

寛容の精神

今回、重要だと思ったのは「絶対的なものはある、ただし、それは複数ある」ということで、寛容の精神が必要だという点です。佐藤さん自身、キリスト教徒としてキリストを絶対的な存在としながら、他者にその他の絶対的な存在があることも認めています。それが寛容に繋がる。最近のインターネットでは、この寛容の精神が失われていますよね。それが不自由さの感覚に繋がっている気がします。
佐藤さんは、自分がそう見られている右派にもかつて持っていた寛容の精神が失われて、左翼と同じ「内ゲバ」の心理が生まれていると批判しています。なるほど。
年末のN響ベートーヴェン「第九」演奏で指揮をしたフランソワ・グザヴィエ・ロトさんが、日本人には共生の感覚があるということをコメントされていました。その日本人が「第九」を好きで毎年演奏するってところに未来がある気がしました。元々の「第九」の人類愛に日本的な「寛容の精神」のフィルターを通すことで新しい世界的な価値として提示できるんじゃないでしょうか。理想的過ぎますかね?

佐藤さんは「愚行権」という言葉も使われています。その言葉もキープしました。
小泉純一郎首相が靖国神社を参拝したからPTSDになったと訴訟を起こしたキリスト教徒の事例で、このような訴訟を起こす人は寛容の幅が狭すぎると思いますと書かれています。思い出したのは、近所の幼稚園か保育園を、子どもの声がうるさいと訴えたお年寄りのニュースです。この人も寛容の幅が狭いのでしょう。日本社会全体の寛容の幅が狭くなってきているようですね。

無神論

ちょっと自分のことを考えて規定してみました。
自分は、無神論者です。無宗教。しかし桜島などに対する畏敬の念を持っています。つまり、信心はあるということ。そこから自分の思考を作っていこうと思います。

官僚批判

自身の経歴から、佐藤さんは様々に現代の官僚を批判されています。鈴木宗男さんを排除したことで「うるさ型の国会議員との切磋琢磨がなくなると官僚の力が目に見えて衰えてくる」(283)という記述を読んで、なるほどと思いました。私も仕事で面倒くさい人との付き合い、交渉、一見無駄な議論が多々ありますが、そういう人は自分を鍛えてくれるんだという視点を得ることができます。感謝です。
以前、ソフトバンク孫正義社長がTwitterで、


とツイートしていて、さすがだなあと思いましたが、その感覚に近いですね。
一般論で言うと、天才ではなく秀才は面倒くさい議論をすっ飛ばしがちです。半端に頭がいいからです。官僚も秀才ばかりになってきているのかもしれません。

また、官僚が国益、公益のためと思って真面目に仕事をすると遵法意識が低くなります(2094)、という一文にはハッとしました。これはすぐに思いつくのはテレビドラマから映画化された『SP』の堤真一さんなどを思い付きます。真面目であるがゆえに法律の回りくどさや無駄に我慢できずに法律を踏み越えてしまうことが多々あります。
官僚や公務員というのは、やはり形式主義的である必要があるんじゃないか。市民は深く考えずに公務員の形式的な仕事を批判しますが、人の恣意性が入らない形式主義にこそ行政の平等性という価値がある気がしました。融通を利かせよ、という要求は結局のところ、自分だけは有利に扱ってくれ、という都合のいい要求であることがほとんどのようです。そんなことばかり求めていると、国家の暴力性がむき出しになって自分に向かってくることがありますよと。

佐藤さんは官僚も第四の階級として、独自に分析すべきだと考えていて、さすがです。新自由主義を格差が拡大するとして批判する人たちは、もし裕福な企業や人から税金を徴収して再配分するとして、その再配分を実際に行うのは官僚になってしまうということを理解していない人が多いですよね。官僚に権限をこれ以上与えてどうするつもりでしょうか?

新自由主義批判

佐藤さんは、活字メディアは新自由主義とは相性がよくないと言います。新自由主義に対する違和感を表明している佐藤さんは戦いの方法として活字メディア、つまり本を重視しているようです。読書が闘争の手段となり得る。逮捕されて本を読むしかなかった佐藤さんはそうやって戦ってきたわけですね。
別のところでは、とりあえず商品経済に巻き込まれない人間的ネットワークを作るしかないということも言っています。資本主義に取り込まれない領域を確保していくゲリラ戦しかない、という感覚でしょうか。ビブリオバトルなんかも、ささやかで参加者たちは無意識でしょうが、ゲリラ戦を戦っているのかもしれません。

マルクス主義もまた新自由主義に対抗する武器になります。武器というか敵を知る有効な手段の一つでしょうか。
現在のところ、私は資本主義とその先鋭化と思われる新自由主義に対しては、とりあえず現実的に付き合っていくしかないだろうと考えています。たとえば内田樹さんの思考には未来が感じられないのです。
佐藤優さんは、国家は悪だが必要と考えています。同じように資本主義は悪だが必要です。国家に変わるシステム、資本主義に変わるシステムが存在しない限り、ベターな仕組みとして両者を少しでもよい方向にするべく個人的にできることを行なったうえで、現実的に付き合っていくしかないだろうと思います。その点を下記のように書かれていました。

資本主義システムが癌のような死に至る病だとしても、根本的な治療法がないのだから、それと付き合うしかないと諦めています。(2602)

しかし、小林弘幸さんが言うように諦めることは、「明らめる」ことに繋がります。つまり、物事を明らかにするということです。資本主義を徹底的に明らめることが生き残ることに繋がります。そのためのマルクス主義なのかもしれません。

イスラム国を予言?

長くなりましたので、最後に次の佐藤優さんの言葉を引用して終わります。2006年のインタビューですが、2014年のイスラム国を予言しているようで驚きました。

より重要な方向は、アルカイダ型のイスラーム原理主義で、国家ではないが何らかの暴力装置、統治形態が既存の国民国家に拮抗する可能性はある。結論から言えば、私はそれはロクなもんじゃないと思う。(2984)

国家と神とマルクス―「自由主義的保守主義者」かく語りき

国家と神とマルクス―「自由主義的保守主義者」かく語りき