ドゥルーズ読み〜2

私がしゃべってきたのは、しゃべりたいという気持ちが強かったからにすぎないんだよ。(『記号と事件』)


どうして沈黙できないのか。ランボーのように。僕は去年、四万十川ユース・ホステルのノートにランボーの詩を書き付けた(さあいいか!前進だ、重い荷物だ、砂漠だ、倦怠と怒りだ)。他にそんな奴は誰もいなかった。四万十川をミレーのオフェーリアのように流れていった男はいたが……。

私がじっとしているとしても、旅行に出ないとしても、みんなと同じようにその場にいながらにして旅(トリップ)をしているということに変わりはないんだ。しかもそれは私自身の感動によってしか計ることができないばかりか、私が書くもののなかに、しかもできるだけ遠回しな、できるだけ婉曲なかたちであらわすしかないような旅なんだよ。(『記号と事件』)


去年の夏休みは四国へ行った。
今年は他のどこでもないところへ行く。inner tripだ。といっても、ドラッグはやらない。それはたんに違法だから。合法のドラッグはやるかもしれない。アルコール、カフェイン、音楽……音楽もドラッグにちがいない。僕は、音楽のおかげで気狂いピエロになるのをまぬがれている。あるいは、気狂いピエロになることができる。

バロウズの問いはつぎのようなものでした。麻薬をやらずに、麻薬のせいでボロ布のようになることなしに、それでもなお麻薬の力をとらえることができるだろうか?−−ドゥルーズ=ガタリ(『記号と事件』)


死すべき定めの人間にとって神聖な一つのコカイン!
くり返していう。僕は、ドラッグはやらない。ドラッグに頼らずに、女性や野ウサギになる。それは仏陀の方法だ。彼は、体内ドラッグを自らつくり出し、nirvanaに達したのだ。猟銃で自分の頭を撃ちぬいたりせずとも……マジで銃はもってないんだ。

仏陀だって?あれは札つきの代謝型麻薬中毒者(ジャンキー)だ……麻薬を自分の新陳代謝で作り出す。……」(ウィリアム・バロウズ裸のランチ』)


僕は自分のために語る。僕は自分のために語る?

さて、それでは他人を代弁するのではなく自分のために語るということは、いったいどんな意味をもつのでしょうか?もちろん、これは誰にでも真実を語る瞬間があるというのでもないし、回想録を著したり、精神分析を受けることがあるというのでもありません。一人称の奨励とは違うのです。そうではなくて、心身両面の非人称的な諸力を名ざし、それに挑み、それと戦うということなのです。なんらかの目標を達成しようとこころみても、目的を自覚するには戦いのなかに身を置くしかない。だから、ほかにどうしようもないのです。その意味では、存在自体が政治の色合をおびてくるわけです。(『記号と事件』)