ドゥルーズ読み〜1

 ある日、僕は、ジル・ドゥルーズ「記号と事件」(宮林寛訳 河出書房新社)を読んだ。

 哲学は力をもたない。力をもつのは宗教や国家、資本主義や科学や法、そして世論やテレビであって、哲学はけっして力をもたない。たしかに哲学でも大がかりな内線が勃発することがあるだろう(たとえば観念論と実在論の対立)。しかしそれは戦いといっても冗談の域を出ない戦いだ。みずからは力ではないのだから、哲学が他の諸力と戦いをまじえることはありえないのである。しかし、そのかわりに哲学は戦いなき戦いをたたかい、諸力にたいするゲリラ戦を展開する。また、哲学は他の諸力と語りあうこともできない。相手に向かって言うべきこともないし、伝えるべきことももちあわせていないからだ。哲学にできるのは折衝をおこなうことだけである。哲学以外の諸力は私たちの外にあるだけでは満足せず、私たちの内部にまで侵入してくる。だからこそ、私たちひとりひとりが自分自身を相手に不断の折衝をつづけ、自分自身を敵にまわしてゲリラ戦をくりひろげることにもなるわけだ。それもまた哲学の効用なのである。(『記号と事件』)


「哲学」を「文学」に変換すること。それが僕の「文学」観。もっとポップに「ブンガク」とよんでもいい。「平坦な戦場で僕らが生き延びること」、そのための「ゲリラ戦」。そして「折衝」する。

 元々芸術の仕事というものは、それ自体が戦争に似ている。個人の精神内部における戦争のごときもので、エマヌエル・カント先生も純粋理性批判においてそういう表現を用いているが、ともかく芸術の世界は自らの内部において常に戦い、そして、戦う以上に、むしろ殉ずる世界である。(坂口安吾「ぐうたら戦記」)


 今、僕の意識の内部では、主に九つの勢力が戦っている。
 たとえば、身体。痩せすぎの僕、ツイギーとまではいかないが、オードリーなみ。果たして週に五日のアルバイト(これも主要勢力の一)をしながら、この夏を乗り切れるのか。食べなければ、鍛えなければ……しかし、そうすれば、金と時間が奪われる。金と時間の問題は、この「内戦」のそこをとうとうと流れている。
 ほんとうは内戦などしてる場合ではないのだ。金と太陽、このふたつの敵をどうにかしないといけない。The sun is my enemy. どちらも必要なものだからこそ、僕をいらだだせる。The moon is my friend.
 賢明な、あまりに賢明な読者は、この文=エクリチュール自体が九つの勢力の一だということに気付いているだろう。問題はエクリチュールの強度なのだ。
 とはいっても、私は「エクリチュール」も「強度」もよく知りはしないで使っている。デリダだかだれだか、私は理論、はたまた思想をたくさん食って、そして吐くのだ。消化するつもりなどない。すべて忘れて文を、言葉をつらつらとつらねてゆく。文学的価値判断など他人まかせにして、意味はあってもなく、書けばよい、と思った。私は、私小説を書いているのか、写生文をなぶっているのか、これは小説なのか、わからないのだ。わからないことはわかりたいと思うはずなのかどうかも自信がない。言葉=思考だとすれば、これは思考文だ、とでもいってみようか。やはり、問題はエクリチュールの強度なのだ。
 強度をそなえたエクリチュール、それを私は「文学」とよぶ。だが、声高に叫んでみたところで「文学」は決して返事をしない。では、私はどうするのか。what do I do?