ドゥルーズ読み6

 たとえば、猫のことを書いてみる。
 最近、よく猫と会う。昨日は、まだ生まれて間もないカンジの子猫が、車にはねられた。運よく(運悪く?)、死んでいなかった。痛がってなのか、うねうね動いているその子猫をかかえて、車でひいた女性はおろおろしていた。その一週間ほど前のこと、郵便局へ向かって自転車をこいでいた僕は、路肩の植込のツツジの根元に猫をみた。白くて動かない猫。次の日も猫はおなじ場所にいた。おそらく死骸なんだろう。すこし黒ずんでいた。次の日は、雨が降った。バイトが休みだったので、猫には会えなかった。次の日は会えた。見違えるほど、黒さをましていた。腐りつつあるのだ。そして、腐った肉は土と一体化してゆく。ツツジの養分となり、来年、美しい花を咲かせるのだ、と思った。ひょっとすると、こどもがその花の蜜を吸ったりするかもしれない。
 こどもの頃、僕は海の近く、田舎に住んでいた。小学校の帰り道、道端の雑草をおやつのように食べていたことをおぼえている。にがい草、西瓜の味のする草……いろいろ試食してみた。それらの草は、たしかに猫の死骸や、犬の排泄物などを養分にして育っていたのだった。雨が降れば、アスファルトのうえには車にひかれてペッシャンコのカエルやミミズが三次元の世界を離脱し、二次元に生きていた。彼らもおそらく、僕が食った草の成長に貢献していただろう。
 これらのことは、僕にしては、具体的な文だ。たしかに僕の他の文は抽象的すぎる。でも、それが僕にとってはリアルなことだったりする。

 単に「形が無い」というだけで、現実と非現実とが区別せられて堪まろうものではないのだ。「感じる」ということ、感じられる世界の実在すること、そして、感じられる世界が私達にとってこれほども強い現実であること、ここに実感を持つことの出来ない人々は、芸術のスペシアリテの中へ大胆な足を踏み入れてはならない。(坂口安吾「FARCEに就て」)

 リアルであること。僕らのリアル――「リバーズ・エッジ」。死体を、僕はみたことがない。死骸はよくみる。自動車に轢かれた猫。自動車に轢かれた犬。自動車に轢かれた鳩。自動車に轢かれた人……それは死体か。毎年、一万人以上の人が自動車に轢かれて死体となっている。毎年、二回の阪神大震災。でも、僕は死体をみたことがない。

 世界の存在を信じることが、じつは私たちにいちばん欠けていることなのです。私たちは完全に世界を見失ってしまった。私たちは世界を奪われてしまったのです。世界の存在を信じるとは、小さなものでもいいから、とにかく管理の手を逃れる<事件>をひきおこしたり、あるいは面積や体積が小さくてもかまわないから、とにかく新しい時空間を発生させたりすることでもある。(『記号と事件』)