文部科学省と財務省の官僚に読ませたい森鴎外『渋江抽斎』の一節

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photo by Patrick He

森鴎外渋江抽斎』の中に次のような箇所があった。これは作者の考えの表明された箇所だと思われる。

 学問はこれを身に体し、これを事に措いて、始て用をなすものである。否るものは死学問である。これは世間普通の見解である。しかし学芸を研鑽して造詣の深きを致さんとするものは、必ずしも直ちにこれを身に体せようとはしない。その吃吃として年を閲する間には、心頭姑く用と無用とを度外に置いている。大いなる功績は此の如くにして始て贏ち得らるるものである。

文部科学大臣を初め、大学の行政に関わる人たちすべてに読んで欲しい文章である。

学問は身に付けて、事において役に立たなければ意味が無い。しかし、学問をやって研鑽中の者は実用性をまずは度外視している。ノーベル賞を獲得するか、そこまで至らなくても大きな功績はこのような態度をもって初めて獲得できる。まあ、そういうことを言っている。
だから、用途を指定しない運営費交付金が基盤的経費として重要なのである。文部科学省だけじゃなく、財務省にも言わないといかん。財務省の近視的な思考はおそらく古典の教養が官僚たちに不足しているからではないかと想像できる。3〜5年で「成果」を出せという補助金や競争的資金では、研究者も実用性を意識せざるを得ない。しかし、それでは大きな功績はあげられないのである。

続く文章もぜひ官僚さんたちに読ませたいのでそのまま長く引用する。

 この用無用を問わざる期間は、啻に年を閲するのみではない。あるいは生を終るに至るかも知れない。あるいは世を累ぬるに至るかも知れない。そしてこの期間においては、学問の生活と時務の要求が截然として二をなしている。もし時務の要求が漸く増長し来って、強いて学者の身に薄ったなら、学者がその学問生活を抛って起つこともあろう。しかしその背面には学問のための損失がある。研鑽はここに停止してしまうからである。

時代の要請が強くなって研究者に対してプレッシャーをかけているのが現在の日本の大学行政である。結果、学者が学問を捨ててしまうことがある。表面上は教授、准教授、助教などを続けているかもしれない。しかし、「学問」は捨ててしまったゾンビ研究者になっているかもしれない。それは学問のひいては国家の損失となる。それを強いているのは、長期的な視野に欠けた国の政策なのである。

まるで森鴎外が今の時代を予言しているようで、この箇所を読んで驚いた。まさしく現代は「時務の要求が増長」しているように思える。

下記「日本の科学を考えるガチ議論」で、文部科学省の生田知子さんが、

具体的な意見やデータがあればもっと議論も深まるのではないかと思います。

とおっしゃられている。その「具体的な意見」として、文豪・森鴎外の文章を提示したいところである。よろしくお願いします。

アンケート結果への科学政策改革タスクフォース戦略室長・生田知子さんのコメント | 日本の科学を考えるガチ議論

下記リンク先の「ガチ議論」では、生田さんに加えて、斉藤卓也さんも参加されていて、確かTwitterでもお見受けするので、ぜひ鴎外の意見は伝えたいところである。
文科省官僚への質問、第二弾:本音は引き出せたか?? | 日本の科学を考えるガチ議論