「コミットしたいことを思ったことを収集しなさい」を考える〜エマジェネティックスとは?

works4lifeのnomicoさんの記述はいつもすぐには理解できないので、そこがおもしろいのだが、突然、自分への言及があってびっくりうれしかった。

また、シリアル・ポップな日々のakizukidさんの場合だと、「これは僕は真逆になんでも残ってしまうのが嫌だ、という感覚がある。」という文面があり、ある程度取捨選択した結果のみを必要としているのが伺える。反対に言えば、必要かそうでないかが、ある程度自分の中でクリアになっているのである。いずれにしても、曖昧さを感じなかった。

コミットしたいことを思ったことを収集しなさい – works4Life

ここでの私の引用は下記からです。
ノートについてもっと考えてみた - シリアルポップな日々
「曖昧さ」が無いのは、ある種の潔さだと思う。この記述だけ読むとなんで自分はクールでかっこいいんだと思ってしまう。
中沢新一が、自分はメモ魔で何でも紙にメモするが、時々そのメモを無くしてしまう、でも気にしない、という話をしていた。僕にはその記憶があり、その姿勢がメモのベースとなっているので、メモを捨てることができる。

時同じくして、私はエマジェネティックスを知った。エマジェネティックスは思考分析の一種であり、人の考える傾向は、分析型・ディテール型・社交型・コンセプト型の4つの思考スタイルの比率で捉えようとしている。

エマジェネティックスを調べてみる。
でまだろくにエマジェネティックスを理解せずに話を進めると私はどうやらディテール型が強いとnomicoさんには見られているらしい。
「必要かそうでないかが、ある程度自分の中でクリアになっているのである」というnomicoさんの分析だが、それはまずはなるほどと受け入れてみる。
モレスキンMUCU POCKETBOOK)でユビキタス・キャプチャーを実践しているが、書き込みで迷うことはほとんどない。書き込んでいないことでくよくよ思い患ったりもしないようだ。
私はdankogai氏のインタビューで発せられた「忘却力」という言葉をよく使うが、それは自分で思っていた憧れから選んでいる言葉ではなくて、元々自分にある傾向を補完してくれるから使うのかもしれない。ユビキタス・キャプチャーで書き込まない、つまりGTDで「収集」しない正当化のためである。
取捨選択、、、モレスキンは美しい宮殿のようにしたいのだろうか。香港の下町の猥雑さを私が苦手としているのかもしれない。「恋する惑星」は好きだが、あれはすでにウォン・カーウァイのフィルターで取捨選択された香港だろう。
情熱大陸」でアフリカで活躍する活動家の人たちを見てかっこいいと思いながらも、実践しないのはテレビに映らない大変さ、現実があることくらいは想像できるし、私はそういったところから正直目を背けたいのだ。
現実は苦手。夢見るように生きたい。松浦寿輝の小説のようなことをつい夢想してしまう。

EBtで「エマジェネティックス」メモを作った。そこにGoogleで検索して出てきたnomicoさんの記述をコピペした貼りつけた。そのメモを「study勉強」というメモにリンク。「study勉強」は「Today」にリンクされているので、またネットで調べることにする。

ディテール型が用意する「一律の箱」は、意味がある/無意味を分ける「箱」か。「箱」に収めない物事は無意味である。
ああ、ここでウィトゲンシュタインのことを思った。記述可能な世界を全て記述することで記述できない世界を定義する。そういう哲学ではなかったか。
僕にとってGTDとは、行動可能な事象を全て収集することで行動できない事象をはっきりとらえるための方法論なのかもしれない。そこに「文学」が立ちのぼる。
4-hours writingもそのためにやっている気がした。ただの思いつきだが。

nomicoさんの記事を印刷した。じっくり読んでみることにする。理解するとか、そういうことを考えるんじゃなくて、ただ読むことを考えている。
三つ折りにしてしばらく携帯してみる。

何も結論がなく、闇雲に長くなってしまったが、これを投稿する。
タイトルの「コミットしたいことを思ったことを収集しなさい」というDavid Allenの言葉らしいことについては、確かに僕はGTDの「収集」範囲はそんなに広くないだろうと思っている。収集前にすでに選別されているようだ。
Collect what I want to commit.