鍋焼きうどんと時代設定~五重塔③

幸田露伴五重塔』を読む3回目。
出張があったりしてなかなか進まない。

其十

十兵衛の「やむにやまれぬ心」(八重の桜)が描かれる。
私は、綾瀬はるかさんが美しかった大河ドラマ『八重の桜』の確か2回目、やむにやまれぬ心というキーワードが心に残り続けている。
やむにやまれぬ心は、情熱大陸である。
見城徹さん風に言えば、熱狂である。
決断力のない困ったトップである上人が、忖度を促して、どっちか自主的に譲れと。
それでも譲りたくないというやむにやまれぬ心が十兵衛にはある。
だんだん慣れてきたので、あまり調べずにリズムよく読むことができるようになっている。

其十一

今度は源太の様子。
源太が帰宅して食べる三輪漬けと鮭卵は美味しそうだ。
それはそうとて、源太は弟と思う十兵衛と二人で五重塔を建てようと考えている。
それに対して妻のお吉が「一人の首を二人で切るような卑劣(けち)なこと」と小気味よい。
そもそも、決断力のない上人が悪いのだ。
登尾豊「「五重塔」論」では「高徳の朗円上人」と書かれているが、現代的な感覚では私はそれを承認するわけにはいかない。
念のため「上人」と「承認」で駄洒落を狙っているわけではない。
時を戻すと、源太に対して意見を述べるお吉の方が現代的な感覚であり、人間として上にある。
仕事を一緒にやりやすいのはお吉の方だ。

其十二

源太は、十兵衛が頭を下げに来ることを期待している。
でた、忖度の期待。
源太もまた、つまらない上司なのだ。
近代的であろうが、反近代だろうが、日本社会の男にはこういうつまらないところがある。
自らが決断せずに、下の人間の忖度を期待し、うまく忖度できない人間をやんわりと排除するようなけちくさい排他性だ。
言い過ぎかもしれないが、まあ、とりあえず。
そして、源太は十兵衛が来ないものだから、待ちわびてついには癇癪を起こして自ら十兵衛の元へ出かける。
「ただ溜息をする」お吉さんの苦労が想像される。
それに比べると、育児休暇をとる小泉進次郎さんは、なんと言われようと江戸や明治の男よりははるかにましだろう。

其十三

源太が十兵衛の家にやってくる。
十兵衛の妻、お浪はうまい対応ができない。
緊張が走る。
一方的にしゃべる源太。
「かえって遠くに売りあるく鍋焼饂飩の呼び声の」が気になり調べてみると、鍋焼きうどんは明治維新前の江戸末期に大阪でまず発祥して流行ったらしい。
元治2年(1865)初演の芝居「粋菩提禅悟野晒(すいぼたいさとりののざらし)」という芝居の台詞で、鍋焼きうどんが流行していることがわかる。
江戸にその流行が来るのは明治になってからで、そうなると『五重塔』が連載された明治25年(1892)には江戸にも鍋焼きうどんが定着していただろうが、小説の時代設定が江戸だとしたら、鍋焼きうどんの呼び声が聞こえるのはちょっとおかしくなる。
そもそも『五重塔』の時代設定っていつなんだろう?
勝手に江戸時代だと思っていたが、明治なのか?
鍋焼きうどん、という思わぬところで謎が出てきたので、このまま投稿してしばらく調べてみようと思う。
ちなみに「粋菩提禅悟野晒」で検索すると、鍋焼きうどんの初出として色んな人が書いている。
こうなると一次資料に当たった方がよさそうだ。
ちょっと検索してみるが、みんな鍋焼きうどんについて書いているばかりで肝心の一次資料がどこでどうやったら読めるのかわからない。
なかなか困った。
沼だな。

五重塔 (岩波文庫)

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