仕事の文書を文章として書くこと〜田中泰延『読みたいように、書けばいい。』

田中泰延さんの『読みたいように、書けばいい。』のブログ記事2回目である。

前回は、脱線して長くなったので、とりあえず切断して投稿した。
ざっと1,800字くらいだ。
今回は、別に前回を読んでいなくても問題ない。

田中さんは、文書と文章の違いについて書かれていた。

  • 問題解決や目的達成のための文章は「文書」
  • 「書きたい人がいて、読みたい人がいる(かもしれない)」のが「文章」

なるほど、わかりやすい定義だ。

私の卒業論文修士論文が、間違っていたのは、上の文書と文章を混同していたことではないか。
私は、自分が書きたいように、卒業論文修士論文を書いてしまったのである。
結果、単位は取得できたので、私は文学修士となった。
文書としての目的は達成できたと言える。
しかし、その後、文学研究者としてのキャリアには接続しなかった。
そのため今はサラリーマンをしている。
もう17年目かな。
まだ、田中泰延さんの24年間には届かない。
だから、まだ辞めない。
ちなみに私の会社は電通ではない。
就職活動時に電通から資料を取り寄せたことはある。
そこには悪評高い「鬼十則」が書かれていた。
それはマッチョなルールだが、自分で選択するにはいいんじゃないかと今でも思っている。
会社から押し付けられるとつらい。
要するに、電通に入らなくてよかった気がする。
自由に鬼十則を使うことができたからだ。

前回と同じだ。
また脱線してしまった。
脱線スタイル。
文書と文章の違いについて、だった。
ふと、思いついたのは、私の論文スタイルは、今となれば正しいのではないか、ということだ。
要するに、サラリーマンとして日々作成する文書について、文章のように書いてみてはどうだろうか。
書きたいように文書を書くのだ。
どのみち、会社には決裁という仕組みがある。
官僚になった三島由紀夫のような文書を書けば、決裁で否定されるだけなのだ。
決裁を通してしまえば文書としての目的は達成される。
でも、実は文章なのだ。
そうやって仕事をおもしろくやればいい。
仕事でも「読みたいように、書けばいい」のだ。
ちょっと調べてみたら三島由紀夫、本名「平岡公威」は東京大学法文学部卒業後、大蔵省に入省して1年もたずに辞めているんだね。
落ちこぼれじゃないか。
文章はすばらしかったが、文書は書けなかったのかもしれない。
しかし、自分は三島由紀夫にさほど興味がない。
そのため、脱線から戻って、仕事における文書を文章として書くことについてもう少し書いてみたい。

実際、今まで17年間のサラリーマン人生で自分が書いてきた文書はほとんど文章だった気がする。
公にする文書はほとんど書いていない。
今は、仕事での文書は圧倒的にメールが多い。
そのメールの文書を自分は好きなように書いてきた。
伝わればそれでいい、そしておもしろみがなければ、みんなメールはスルーするのである。
だから、文書ではなく文章として書かなければつまらない。
そう思っていた気がする。
熱量。
そう、本書の編集者である今野良介さんが田中泰延さんへ送った「異常な熱量のメール」こそが、人を動かすのだと思う。
かくして、自分は本書から、仕事においても文書ではなく、文章を書いて人を動かすことが勝負だ、という学びを勝手に得た。

これは1,200字超え、前回より短めだが、私にしては長い。

読みたいことを、書けばいい。 人生が変わるシンプルな文章術

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