宇和島ブルースは知らないけれども

宇和島ブルースは知らないけれども、大竹伸朗さんの「宇和島ブルース」は刺激的な文章である。

所用があって、熊本へ行くことになった。
いつも熊本に行く用事ができると、熊本市立現代美術館の展覧会を検索する。
以前は、それでタイミングよく川内倫子さんの写真展があっていた。
今回、検索してみると、、、大竹伸朗さんの展覧会があるではないか!
またしてもラッキーだ。
これは行くしかない。
というわけで、また『既にそこにあるもの』を引っ張り出して読み始めた。
これはちくま文庫で持っていて、もう5回以上は読んでいる。
ニーチェの『この人を見よ』と匹敵する。
その1曲目が「宇和島ブルース」である。
いや、冒頭のエッセイ。
これがロック。
森進一さんのヒット曲は知らなくても、この文章だけで、こうやってブログが書ける。
たとえば「説明のつかぬ浮遊感覚」。
文脈が違っても、自分も常に浮遊感覚のような感じで生きている。
なんというかこう、生に実感がない。
うわの空という感じだ。
フィッシュマンズで言えば、空中キャンプのような。
その辺りに接続していくる。
また「愛の持続法」などは、まったく本筋ではないのだけれど、今回、初めて接続したのは、それが今の自分にとって切実な問題だからだ。
このエッセイが発表されたのは1997年、大竹伸朗さんは1955年生まれだから42歳、今、自分が44歳なので同世代である。

 男四十にでもなれば、もう少し一日の終わりに、“充実”というやつの片鱗でも頭上三十センチあたりにポッカリ現れるものかと思っていたが、今、漠然と自分自身のことでわかっていることと言えば、どうやら自分は何かを何かの上に貼ったり塗ったりするのがすごく好きらしいといったことぐらいで、充実どころか今日もまた、“届かなかったもどかしきやるせなさ”で一日が過ぎていく。p18

自分も、接続するやるせなさで一日が過ぎていくのを感じながら、それを軽く一杯で押し流すくらいしかできず、大竹伸朗さんのように何かをなにかの上に貼ったり塗ったりしなければならないというような「強い思い」すらない。
それが40歳過ぎて、強くなっている。
ダークサイドのそばに立っている。
今日は一体何をした?
それを突きつけられる言葉だ。
何をしたっていいのである。
自分なりの納得感、衝動を捕まえて「仕事や家庭を壊さない程度の狂気」を発明すること。
それが自分の課題だと思っている。
現在位置再確認。

既にそこにあるもの (ちくま文庫)

既にそこにあるもの (ちくま文庫)