信頼すること

パルプ・フィクション』は信頼の映画だ、という評価を読んで、なるほどと思った。
個人的にも、愛に価値を置くよりは、信頼の方がいいと思う。
愛は憎悪に容易に接続し、ダークサイドに取り込まれやすい。
アナキン・スカイウォーカーを見よ。
その点、パルプにおいて信頼に価値を置いたキャラクターは、人殺しをしながらも、ダークサイドには陥っていない。
それが映画を見て痛快な要素だと思う。
さて、今読み進めているティール組織においても、信頼が重要な組織的要件となっている。
規則やガバナンスではなく、信頼を軸として組織を作るのだ。
もちろん最も身近でリアルな組織である家族においても、信頼をベースにした方がいいだろう。
妻との間には元々、愛があって、嫉妬などのダークサイドに接続する感情もコインの裏表のようにあった。
結婚して、子ども三人を育てている今の家庭においては、愛ではなく信頼を重視した方がいい。
なかなか難しい思春期長男に対しても信頼をベースに心理的安全性(Google)を構築することを考えた方がいい。
その際、相手に関わりなくこちらがまず100%の信頼をすることが重要だ。
相手が信頼できるから信頼するのではなく、こちらがまずジャンプするのだ。
同じくタランティーノの『レザボア・ドッグス』のように裏切りに合うかもしれない。
それでも信頼すること。
結果、裏切られて死ぬとしても、それは美しい、というのがタランティーノの映画の倫理エチカと言えるかもしれない。
この信頼は、見城徹さんなんかが重視する義理と人情とはちょっと違う気がする。
見返りが無くても与えるのが信頼である。
この辺りはもう少し考えてみたい。