アダム・スミス『道徳感情論』を1年かけて読了

ようやくアダム・スミス道徳感情論』を読了した。Kindle版を買って、1年ほど経過してようやくだ。長かった。確認したら去年の10月6日購入していた。少しずつ読み進めた。
結果、今、自分の中には何も残っていない気がする。ハイライトを読み返してみよう。
訳者の高哲男さんの解説がわかりやすい。解説を読んで、当該箇所にあたってみる、という読み方がいいのかもしれない。

思い出した、『道徳感情論』を読もうと思ったのは、「感情」について知りたかったからである。
物事を進めるのに、人間の感情は重要で、そこを無視して合理性一辺倒で進めようとすると、得てして堀江貴文さんのように失敗する。重鎮たち、社会の上方にいるおじさんたちの感情を害してしまうことで、物事は進まなくなる。対照的なのが、藤田晋さんで、友人である堀江さんの失敗を見て、感情の重要さを改めて深く心に刻んだのではないだろうか。藤田さんは、おそらく礼儀正しく、年長者に好かれる。
それじゃあ、『道徳感情論』を読了して、人間の感情に対する理解が深まったかというと、心許ない。やはりハイライトを読み返す作業が必要だ。

ハイライトを読み返してみると、まず冒頭の一文がすばらしいと思った。

 いかに利己的であるように見えようと、人間本性のなかには、他人の運命に関心をもち、他人の幸福をかけがえのないものにするいくつかの推進力が含まれている。238

なんか、もう、この一文だけで読んだ価値があるのではないか。共感する力が人間にはある。それをすばらしい表現で書かれている。

ふと、上記のような点で『道徳感情論』の枠外にいるのが、最近流行りの「サイコパス」なんだろう。サイコパスという言葉が流行ってうんざりするのが、サイコパスを口実にする人たちがうじゃうじゃ湧いて出ることだ。おそらく自称サイコパスは、サイコパスじゃない。自称天然が全然天然じゃないのと同じだ。「俺って、変わってるんだよねえ」

次の箇所などは、マッチョのすすめみたいでおもしろかった。

敵対者との同席を避けたりせず、あなたが、自分の不幸によってほとんど影響されてはおらず、どれだけ大きくそれを超越しているか、それを彼らに感じ取らせ、彼らの悪意に満ちた満足を克服する喜びを、自分自身のものにしなさい。3867

このように断片的には興味深い記述があったが、全体として理解したとは言いがたい。『道徳感情論』全体を理解するには、やはり後世の解説を読みながらの方がいいのだろうが、とりあえずは読了してそれでよしとする。実際、『道徳感情論』を読み切った人というのは、少ないのではないだろうか。

道徳感情論 (講談社学術文庫)

道徳感情論 (講談社学術文庫)