ガラシャへの執着から逃れるための情熱を探して

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40歳を過ぎて中年になっても性欲が衰えない。それどころか、若い頃に比べて日々の生活そのものが平坦となり刺激がないせいか、かえってセックスへの執着が強くなっている気がする。
問題は、性欲やセックスに対する執着のギャップ。パートナーがセックスに対して貪欲でなかったりすると、そこからセックスレスになったり、極端な場合、片方が不倫などのめんどくさい方向へ走ってしまったりする。不倫とか色々、安定した関係や家庭を破壊する行為は心底うんざりする。めんどくさい。

そこでセックスへの執着をどうするかについて考えている。執着から逃れるために、そのエネルギーを何か別の対象に向けることができたらいいんじゃないかと考えている。たとえば読書や勉強に没頭していれば割とセックスを忘れていることができる。逆に、寝付きが悪い時の不眠時間などはセックスのことばかり考えてしまう。そんな時は起きて読書でもすればいい。あるいは今やっているみたいにブログを書くとか。ポケモンGOを起動して近所を歩きまわるのもいいかもしれない。一人、踊ってもいい。

40歳前後というのは、人生の達人のように見える糸井重里さんでも精神的な危機があったようで、サブカル鬱といった言葉もある。老化の始まりが「見える化」されるとか、仕事が安定してきて先が見えてしまったとか、色々と厳しい年代のようだ。
たぶん自分もそういった危うさを抱えていて、時々不安定になって、子どもたちに対して申し訳ない怒りをぶつけてしまったりしている。そんな折、小学六年生の息子を受験勉強をしないからと殺害した父親のニュース。やれん。
これじゃあよくない。
しかし、何かおかしなことをやることで正気を保っている、ということもあるだろう。町田康さんの小説の人物のように、働きもせずテレビの時代劇を見ながら踊る、といった狂気じみたアクションも正気を保つためには必要。他人を傷つけずに後戻りできる程度の狂気はよい。

自分にとって、情熱、パッションは何か。20年前は、それが恋愛だった。今はそういうわけにはいかない。

セックスに戻すと、フェティシズムは一つのヒントのように考えている。それによって、具体的なセックスやめんどくさい不倫を回避することができるのではないか。セックスという行為そのものではなく、そこから逸脱した欲望を美学の域まで洗練させること。

何か思考のきっかけになるのではないかと、以前に書いて放置していた下書きを下に↓

厄年になっても持て余している自らの性欲を言葉で微分していく試みを。たとえば村上春樹さん、村上龍さんの言葉はリアルではない。赤坂真理さん、藤沢周さんの言葉の方が相対的には自分の感覚に近い。それでも一致はしない。世代の問題ではない。たとえば中上健次さんの言葉であれば近いと感じるから。しかし、中上さんとはその他の面で色々と違うせいか、ぴったりとは来ない。たぶん体格の違いが大きい。体格は文章に現れる気がする。ガリガリ体格の自分は、やはり自分自身の言葉を見つける必要がある。

ちょっと待て、何で性欲を言葉にするような回りくどいことをしているんだ?確かに、手っ取り早くセックスするのが一番かも。ただ多分セックスの回数や人数をいくら重ねても、どこにもたどり着くことはできない。また、自分には妻である彼女が唯一の相手なのだ。率直に書くと、別に他の女性ともセックスすることはできるが、したいのは彼女。ガラシャに倒錯的な愛を抱いた細川忠興の気持ちがわかるような気がしてきた。
その彼女と自分のペースが異なるために、僕が工夫しないといけない。少ない回数での満足。そこで、言葉で微分する試みを。

セックスをしている時の感覚をすぐに忘れてしまう。これってなぜと思う。セックスの快楽や感覚がずっと続けばいいのに。そうすれば、もう少しセックスから解放されるかもしれない。しかし、この快楽の忘却には機能があるんじゃないか。
そういえば、堀江貴文さんが、食欲・性欲・睡眠欲は毎日リセットされる、ということを言っていた。むしろ記憶の方が後天的な機能なのかもしれない。
多分、記憶の方が不自然で人工的なんだと思う。たとえば、素晴らしくエロいグラビアアイドルの画像を見つけても、それを数日間見ていると飽きてしまう。
日々リセットされるもんだから、毎日やりたい、って思う。
毎日といっても強弱はある。本当に毎日やれば体力がもたない。

こうやって言葉で微分していく試み、は一つのアイデア
いや、とにかくセックスしたい、愛する彼女と。

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