引越以来の段ボールから本を選んで表に出した。棚に並べる。本も表に出ていないと読まなくなる。持っている本は読まないともったいない。読まない本はブックオフに売ろう。
大竹伸朗さんの『既にそこにあるもの』というタイトルはぴったりだ。既にそこにある本を読もう。これはCDにも言えることだが、手持ちの本やCDだけで死ぬまで困らない。むしろ本はKindleに、CDはiTunesに切り替えることで物理的なモノは減らしていっている。
今、読みたい本を読もう。読みたくない本を読まなければならないという義務感で読むのは止めよう。それは今の自分にとって必要の無い本。
一冊選んだのは、中島義道さんの『人生を〈半分〉降りる』という文庫本。序章を読むと40歳になった今、改めて読みたいと思った。文庫本カバーを選んでかけた。カバーをかけた本が今読んでいる本。複数ある。
読みたい本の読みたい箇所のみ読もう。ピンと来ない文章はどんどんとばそう。読書は自由だ。読み手の自由。
レバレッジメモとか、どうでもいい。勉強しているのではなく、読書をしているのだから、ただ読めばいい。ノートとったり、概念を覚えたりする必要は無い。未だにどうも受験勉強の癖が抜けていないのが困る。読書から何か得ないともったいないという小市民的な思考から抜け出せていない。
本題とは関係ないけれど、中島義道さんはおもしろい。中島さんに言わせたら、国立大学から文系なんかごっそり無くなってもまったく構わない、とか言いそうで。脊髄反射で、文系は大学に必要だ!と声を上げている学者は多いけれど、一旦ゼロベースで、本当に大学に文系学部が必要なのか?と根本的な自問自答を行なっている人がどれだけいるだろうか。文系学部に税金を費やすことは本当に必要なのか?こんなにたくさんの教授を初めとする教員を税金で養っていることに国民は良しとするのか?考え始めると、なかなか難しいところがあります。少なくとも私は自信をもって文系学部が必要だとは言い切れない。自分が文系学部出身(国立大学ではなく、県立大学ではあるのですが)であるにも関わらず。
読書は自分が考えるために読む。そして、考えていることをこうやってブログにする。
ちょうど中島義道さんの本にぴったりな文章を見つけた。
これからもカントの代表著作は読む、ほかの古典的哲学書も読む。おもしろければ何でも読む。しかし、けっして「論文を書くため(だけ)に本を読む」ことはしないことに決めたのです。(120)
読書そのものを目的とする。自分はそもそもアカデミックな立場にいるわけではないので、論文のために読書をする必要などなく、もっと自由でいいはず。
もう一つ、ドゥルーズは「本を小型の非意味形成機械と考える読み方」について書いていた。読み手にとってどう機能するのか?というポイント。それは、強度にしたがう読み方とも言えそう。説明すべきことは何もないし、理解することも、解釈することもありはしない。
そういった自由な読書をこれからは追求しようと思う。
- 作者: 中島義道
- 出版社/メーカー: 筑摩書房
- 発売日: 2008/01/09
- メディア: 文庫
- 購入: 5人 クリック: 80回
- この商品を含むブログ (50件) を見る