四十歳の自分にある種のアート成分をインストールするための大竹伸朗『既にそこにあるもの』

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ドゥルーズスピノザ』はトイレで読んだ。読了後、次にスピノザ『エチカ』を読み始めたが、これはKindle版なのでトイレに置くことはできない。トイレに置くのは文庫本がいい。手にとったのは大竹伸朗さんの『既にそこにあるもの』。
複数のブックカバーから一つを選んでトイレに置く。読み始めて一曲目「宇和島ブルース」で次の箇所に止まった。

男四十にでもなれば、もう少し一日の終わりに、"充実"というやつの片鱗でも頭上三十センチあたりにポッカリ現れるものかと思っていたが、今、漠然と自分自身のことでわかっていることと言えば、どうやら自分は何かを何かの上に貼ったり塗ったりするのがすごく好きらしいといったことぐらいで、充実どころか今日もまた、"届かなかったもどかしさやるせなさ"で一日が過ぎていく。

ここ数年ずっと四十歳になることを考えていた。松浦弥太郎さんや糸井重里さんなど、色んな人の四十歳に注目してきた。「宇和島ブルース」の発表は1997年1月、大竹伸朗さんは1955年生まれなのでおそらく四十一歳で書かれた文章だろう。自分は"何も成し得ていないという焦り"で一日が過ぎていく。
四十になったからと何かを変えなきゃいけないとか考えてはいない。ただ、何らかの危機がおとずれる年齢だろうと感じている。その対策は必要だ。そこは先人に学ぶのが手っ取り早い。

そうだ。以前、どこかで、たとえば夏目漱石はその人間や生き方には興味がなく『草枕』などの作品に惹かれる、一方、ウォーホルやジョン・ケージは生き方だ、ということを書いた気がする。大竹伸朗さんもその生き方や文章がおもしろい。それでは困る、作品を見てくれ、と言われそうだが。

無理矢理結びつけると、大竹伸朗さんはスピノザ的じゃないか、という予感がある。その色眼鏡で『既にそこにあるもの』を読んでみようと思う。
次の箇所などに情動や力能といったスピノザ的な要素を感じる。

人は一生を費やし様々な人々と出会い、色々なことを経験し、それぞれの感覚に合った事柄に沿って学んでいくのだろうが、結局最終的に体の中に残るのは、個々が動物としての本能によって五感経由で反射的に選択し蓄積していったものなのかもしれない。

そんな大竹伸朗さんは、自分の力能を展開することだけをやり続けてきたアーティストというかスピノザ的な人ではないかと思った。その大竹さんから私の力能に接続する何かがあればいいと思う。ドゥルーズ風に、接続するのが読書の機能ではないか、と私も考えている。

過去記事

akizukid.hatenablog.com
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既にそこにあるもの (ちくま文庫)

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