僕は色んなことを忘れている

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#travelersnote #トラベラーズノート 祖母がいけばな教室で生徒用に使っていた木の小さな机。もらってきた。夏休みにこの机で宿題をしたり、遊んだりしていた。これがあればどこでもスモール書斎になる。トラベラーズノートをあわせて。

祖父の初盆で阿蘇に行ってきた。祖母もすでに亡くなっている。誰も住まなくなった家を10年ぶりに訪れた。小学生の頃は毎年夏休みに一週間ほど滞在した家。写真を何枚か撮った。
祖母が生け花教室で使っていた小さな文机をもらって帰った。子どもの頃、夏休みの宿題をその机でしていた。お盆の終わりに高森町である風鎮祭が楽しみだった。
鹿児島の自宅に帰ってきて、早速、その机を使っていたら、三歳次男がその上に乗って、脚をぶっ壊した。次男に怪我は無く、怒ることはできなかった。昔は子どもが乗ったくらいで壊れなかった。もう木が古くなっていたのだろう。

モノは壊れる。そして、思うのだけれど、僕は記憶力も弱い。記憶も失われる。色んなことを思い出せないのだ。
祖母の記憶も、祖父の記憶もぼんやりしている。あるいは誰かが語る祖母や祖父の記憶で上書き保存されている。それが自分の記憶だという自信が無い。
祖父母だからというわけではない。恋人との記憶もぼんやりしている。出会った頃の記憶。世の中には、カメラのように映像で記憶できる人もいるらしい。人によっては、エピソードとしてうまく記憶しているらしい。僕にはそのどちらの能力も無く、すべての記憶がぼんやりしている。

僕は高校三年ぐらいから日記をつけている。特に大学受験の失敗して浪人生活を始めてから、時間がたっぷりあったのでたくさんの言葉を日記に書いた。しかし、その表現がまったく具体性に欠けるのだ。自分の思いや感情が中心で具体的な描写がなっていない。そのため数年後読み返した時に読むに耐えない文章になっていることが多い。
記憶を引き出すのは具体的な描写だと思う。その意味で自分の感情や気持ちばかりの文章は後日、機能しない。

忘れることは悪いことではないと思っている。忘れることで、過去の記憶ではなく、あくまで今に生きることになる。それが真っ当な在り方だと。
記憶は不意によみがえってくる。ある種の音楽や匂いなどをきっかけとして。それくらいに考えておく。
記憶には期待しない。後日使うことを想定する情報はEvernoteなどに記録しておく。記憶とは区別するのだ。

そんなことから写真に対する執着も薄い。スマホがメインのカメラになってからはもっぱら撮るばかりで現像もしない。
学生時代はコンパクトカメラを持ち歩いていてたくさん現像していたが、ただおしゃれに感じて真似してみただけだろう。その頃はHIROMIXとか長島有里枝とか流行っていた。
写真は記憶の引き出しとしては有効だ。しかし、将来思い出すために撮っていたわけではない。あくまでその瞬間の行為として撮影するのがおもしろかっただけ。

まあ、しかし、そんなこんなも記憶の彼方へ消えていく。それが自分の生き方というほど大げさではなく、スタイルなんだろうと思った。