ルーティンのすすめ〜対幻想としての

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ブコウスキーが、ルーティンと書いていた。しかし、そこに価値があるのかも。毎回変化にとんだ新鮮なんてうんざりだ。ルーティンだからいい。多少のバリエーションがあってもいいが、変化しなければならないという義務はなかろう。

死をポケットに入れて (河出文庫)

死をポケットに入れて (河出文庫)

マンネリだからいい、という価値観は『マンネリズムのすすめ』という新書がある。ずいぶん前に読んだきりだから内容は思い出せない。時々、読み返そうと思う。マンネリを肯定していたのは間違いない。

マンネリズムのすすめ (平凡社新書 (010))

マンネリズムのすすめ (平凡社新書 (010))

変わらなきゃいけない、今までとは変化が必要、というのは資本主義の要請であって、一から十まで私たちがそれに付き合う必要は無い。
資本主義に対するゲリラ戦的な抵抗という意味でも、資本主義の論理に侵されない領域を個人的に作っていくことは重要だと思う。もちろん貨幣が関わらない領域の方がいい。お金が絡むと資本主義から逃れるのはほぼ不可能。
その意味で、特定のパートナーというのは、資本主義の論理を否定してもよい領域、ジャンルだと思う。
(最近話題の岡田斗司夫さんについてはスルー、興味が無い。)
今までまともに吉本隆明さんを読んでいなかったから気付いていなかったけれど、これって対幻想の話だと思った。

ブコウスキーにとっては、競馬場がそういった領域だったのかもしれない。習慣、マンネリ、反復。競馬場でブコウスキーはお金を使うのだけれど、それはしっかりコントロールされていたようだ。一方、コントロールできずに資本主義に飲み込まれた悲惨な人々をフラットに観察しているブコウスキーがいる。

そういえばスローという考え方もアンチ資本主義的ではある。具体的にどうすればいいのかわからないけれども。

「純文学」としては『プラトニック・アニマル』もある。個人的には純文学だと思う。
昔、確か山田詠美さんが大槻ケンヂさんとの対談か何かで、彼氏の部屋に行って本棚に『プラトニック・アニマル』があったらひくよね、と言っていた記憶がある。確かにそれは。しかし、今ではKindle版であるので、そんな心配も無い。Kindleだったら、何を読んでいるのかわからない。
しかし、この本は多少ナイーブ過ぎると感じる面もある。人間には本能というには不純物が混じりすぎている気がする。それは文化的ということかもしれないが。

吉本隆明さんとの対談で、遠藤ミチロウさんが「同じ歌を何回もステージで歌えるのは対幻想だからで、それは何回もできることと同じじゃないか」と言っていて、はっしと膝を打った。
吉本隆明さんの本を読んでみようと思う。そして、家入明子さんのことを考えたりすると面白そう。
(ちなみに家入明子さんの旦那には一切関心が無い。)

http://akikomainichi.hatenablog.com/entry/2014/06/20/193529
http://akikomainichi.hatenablog.com/entry/2014/06/20/193529

余計な自意識をとばしてフラットに語ることができたらいいなと常々考えている。

修正 2017/04/04

AdSenseから違反だという警告が来たので対応してみた。かえっていかがわしい感じになったので素晴らしい。