昭和最後の日に僕は人生で一番輝いていたかもしれない

昭和64年1月7日の朝、記憶では中学2年生だった僕は車で試合会場の体育館に向かっていた。ラジオからはニュースが流れていた。今日の個人戦は行われるのだろうか?そんなことを考えていた。

Tennis club
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僕は小学校で野球を諦めていた。中学校に入学してからは何となく軟式庭球部に入っていた。当時はソフトテニスではなく、軟式庭球、略して「なんてい」と読んでいた。だから僕の中では今でも「軟庭」なのだ。
その日は九州大会の個人戦が地元熊本市の体育館で行われることになっていた。中体連の前哨戦のような大会、高校野球でいう春のセンバツみたいな大会でインドア、つまり体育館の中で行われる大会だった。ちなみに個人戦といっても軟庭の場合、ダブルスを意味していた。いわゆるシングルスはなかった。ダブルスとダブルス三組で戦う団体戦のみ。
その日、大会は開催された。試合前には黙祷をした。喪章を腕につけた記憶があるけどこれは不確かな記憶だ。
そして、僕のペアはあれよあれよという間に勝ち上がって結局準優勝となった。決勝では大分県のペアに負けた。でも九州で二位ってすごくない?
今でも何でそんなに勝てたのかわからない。
その前には熊本県大会で優勝。その前には熊本市大会でも優勝していた。だからフロックではなかったのだと思う。
とにかくミスを先にしないテニスをしていて勝てたのだと思う。ロブを多用していた。
ちなみに僕は後衛だった。今のソフトテニスは知らないが、当時の軟庭は前衛と後衛で明確に役割分担するのが基本だった。僕は後衛をつとめていた。今と同じで痩せっぽっちの体でコートを走り回っていたと思う。みんな何でこんなガリガリに負けるんだろうって思っていたんじゃないかな?
中学生のテニスは先にミスをした方が負けるテニスだった。それで僕たちのペアは準優勝となった。ホームアドバンテージもあった気がする。
表彰式では女子の準優勝ペアが自分が熊本市に転校してくる前の天草の小学校の同級生だったこともわかった。これにはびっくりした。
翌日は1月8日、平成が始まった。その日の熊本日日新聞朝刊に僕たちのペアの写真が載った。準優勝なのに載った。女子は優勝も準優勝も熊本県のペアだったのに準優勝の僕たちが載った。ごめんね。
後衛の僕がレシーブをした瞬間の写真のようだった。
父親が新聞社から写真をもらってきた。今でも実家に帰ると見ることができると思う。
昭和最後の日が僕の人生で一番輝いていた日かもしれない。
こうやって記録に残しておこうとふと思った。