荒川修作+マドリン・ギンズ「死ぬのは法律違反です」を読んだ

タイトルからして挑発的です。こういうの大好きですね。
付箋を貼りながら読みました。

  • アラン・バデューの考えた出来事の生じる四領域
    • 政治、科学、芸術、愛
  • 有機体-人間

ドゥルーズとかその辺の思想との類縁を感じます。

  • 建築的身体
  • 天命反転の法

 生き続けるために全力をつくそうとしないこと、あるいは死のうとする行為は、今日より、第一級の凶悪犯罪に相当する。市民たちは、みずからの存在の核心を明確にするために努力する必要があり、出来事がうまく行かなかったことや、失敗したり、失敗しつづけている条件を、敏感にタイミングよく評価する責任がある。

 戦略的に設定された環境、すなわち配慮された住居のなかでの生活を選択することは、生きつづけようとする万全の努力だとみなされるであろう。

死ぬことを法律違反とする試み、これは病死も含まれるか。

 人間を作り、アイデンティティを形作るのは、自己同一的なプロセスではない。想定されたすべてのアイデンティティは、中途半端な物語であり、独断的でまったく信用の置けないつぎはぎだらけのお話しである。有機体-人間が、有機体-人間である以上のいかなるアイデンティティも主張しないことは。決定的に重要である。アイデンティティをもち続けようとしたり、アイデンティティを超えようすることは、分離独立主義を促進し、民族や家族を孤立させる限り、有機体-人間の可能性を著しく制限するのである。

アイデンティティ批判。

  • 建築的身体
    • 統計的な実体として存在する

 すなわち、みずからの自動性をある程度打ち消すことができること、みずからの身体を増大させることができること、ひとつの問題に対して複数の解答を考え出すこtができること、自分自身とその問題の間にある何ものかを問いただすことができること、効果的な方策を生み出すために、行為を禁止し、先延ばしすることができること、間接的に結果をもたらすという観点から考察できること、である。

一つの問題に対して複数の解答を考えるのはいいな。

 ある日、「私たちは死なないと決意した」と書きとめ、本気でそう思いました。その数年前に、私たちは「死なないために」と書きとめていたかもしれません。それによって私たちは開かれた倫理学を紡ぎ出そうとしたのです。
 天命反転、および天命反転への意志は、有機体-人間(結局、自分自身)を既存の言葉や物語に縛られないようにする決意とともに始まります。それはつまり、人間として生きるために、制約のない出来事を、制約された死に行く道へと還元してしまうことへの拒絶とともに始まるのです。

「死なない」と本気で思うことから広がる世界がある。

  • 三鷹天命反転住宅の使用法から
    • 住戸に入る前に、あらゆる音に耳を傾け、、、
    • すべての部屋を、自分の延長のように扱い、、、

あまりに多くてすべて引用するのが面倒だ。副鼻腔炎の症状もあるので、僕は自分のエネルギーを節約する必要があるのだ。

 少なくとも死に急ぐもの、自殺するものには、それ相当の理由がある。だがこの場合、死の選択は、よほど貧困な選択肢しかない環境のなかで起きていると考えてみるのである。死以外の選択肢が十分享受できるほどの環境設定がなされていれば、特段に死を選ぶ必要はなくなる。それでも死を選ぶものは、法的に拘束するよりない。それが「天命反転の法」である。

河本英夫

  • 可能性の幅を変えるような境界条件の変更
    • 死なない


ちょっと長い期間で、死ぬのは法律違反、ということを頭ん中にひっかけておいて、考えてみようと思います。
夢をみました。
家を建てる時に風景や環境もその家の一部として、もっと言えば家も環境も住む家族の身体の一部として構想すること。それが「建築的身体」かなあと思いました。
自己というものが閉じたもの=アイデンティティが確立されたもの、ではなく、開かれていて境界があいまいになっているようなものとして、、、
ブログやGmailといったウェブサービス、、、こんなもん、学生時代1995年ごろには考えられなかった、、、も自己の延長として考えると、、、
ブログが残ることで、無名の人間でも「死なない」時代になっている。

死ぬのは法律違反です―死に抗する建築 21世紀への源流

死ぬのは法律違反です―死に抗する建築 21世紀への源流