福沢諭吉「福翁自伝」を読んだよ

岩波文庫の「福翁自伝」を読んだ。
口述筆記が元になっているので非常に読みやすい。1万円札なんだから、稼ごうと思っている人は福沢諭吉がどんな人物だったかぐらい知っておいていいと思う。音読すれば自ずと意味が通じてくるような文体です。

Fixed amount handouts
photo credit: EO Kenny via photopin cc

喜怒色に顕さず

あるとき私が何か漢書を読む中に、喜怒色に顕さずという一句を読んで、その時にハット思うて大いに自分で安心決定したことがある。(25頁)

どうもいけない。僕は仕事でもKくんにもすぐ怒ってしまう。「喜怒色に顕さず」ということは僕も金言にしようと思う。

中津の諭吉

大分の中津では諭吉せんべいなど売っていたりするが、どうも諭吉と中津の相性はよくなかったらしく、なんと中津の士族の中には諭吉を暗殺しようした者もいるくらいだ。政治からは身を遠ざけていた諭吉だが、その思想で危険人物とみなされ、暗殺の危機にあったような時代が幕末〜明治なのである。

「やむにやまれぬ心」

緒方塾では塾生はものすごく勉強したらしい。ある日、諭吉が熱病で寝込んでいた時、座布団を枕がわりにしていてが、どうもちゃんとした枕をしてみたいと思い枕を探させたがどうも枕が見当たらない。そこでふと気づいたのが、塾に来て1年ほどになるが枕をしたことがなかったということだ。日が暮れても読書をし、疲れたらそのまま机につっぷして眠ってしまう。あるいは床の間の床側を枕にして寝てしまう。ついぞ布団をしいて寝たことなどなかったということらしい。
これは諭吉だけじゃなく、同窓生みなそんな感じだったというから、僕の勉強などまだまだですね。
「やむにやまれぬ心」(「八重の桜」)をみんなが持っていた時代なんでしょう(2013/1/24追記)。

  • 目的なしの勉強

今日の書生にしても余り学問を勉強すると同時に始終我身の行く先ばかり考えているようでは、修業は出来なかろうと思う。(94頁)


諭吉は横浜に行った際、そこで使われている外国語が英語で、それまでオランダ語ばかりやっていた諭吉にはさっぱり理解できなかった。それで非常に落胆するのだが、立ち直りも早い。これからの時代は英語に違いないと発心しすぐ英語を勉強し始める。
この身軽さを私も持ちたい。プログラム言語でもこんな感じじゃないだろうか。

諭吉は咸臨丸でアメリカへ渡る。咸臨丸での太平洋横断がまた日本人の偉業だ。日本人が初めて蒸気船を見てから足掛け7年、万延元年に出航しようとする際、外国人の手を借りずに出かけて行こうとした勇気と技量を諭吉はたたえている。当時は倒れ掛かっている幕府ですらそれくらいの気概があったのである。

私の好きな諭吉のエピソードに、慶応義塾にて敬礼を止めたというものがある。諭吉が構内を歩くと出会う書生は一々丁寧にお辞儀をする。もちろん諭吉もそれに応じないわけにはいかない。それが非常に大変だ。
というわけで、、、

塾中の生徒は長者に対するのみならず相互の間にも粗暴無礼は固より禁ずるところなれども、講堂の廊下その他塾舎の内外往来頻繁の場所にては、仮令い教師先進者に行き逢うとも丁寧に辞儀するのは無用の沙汰なり、互いに相見て目礼をもって足るべし。益もなき虚飾に時を費やすは学生の本色に非ず。この段心得のために掲示す。(211頁)

今の慶応にもこの気風は生きているだろうか。

これはまた本当かどうかわからずに検証が必要な話だが、諭吉はほとんど暗殺されそうになっていたらしい。しかも中津にて。いよいよ諭吉誅殺決行当日に壮士連中が手柄を争って議論を初め、そこに中西与太夫という人が騒ぎを聞きつけ参加し「人を殺すのはよくない」と言い出すとさらに議論が白熱し、夜が明けてしまい、諭吉当人は何も知らずにその朝船に乗って無事神戸に着いたとのこと。
今の中津市民は諭吉のことを実際どう思っているんでしょうか。諭吉は正直中津のことをあまり好きではなかったようですが。
薩摩で言えば、大久保利通のようなポジションでしょうかね。

諭吉は子どもの教育方法については、まず身体の方を大事にするという主義だったようだ。
7〜10歳くらいまでは、身体には気を配り、躾はするが、あとは暴れるにまかせるという具合で犬猫を育てるのと変わらない、と言っている。
それは私も近い考えで、だからKくんは健康のことが一番気になる。文字は勝手に平仮名を読んでいるし、SHARPとかHONDAのロゴも憶えてしまうし、数字も勝手に50までは数えている。
両親が毎週のように図書館に通う家庭環境であれば十分だと思っている。

新訂 福翁自伝 (岩波文庫)

新訂 福翁自伝 (岩波文庫)